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江戸時代の画人「呉春(ごしゅん)」

江戸時代の画人「呉春(ごしゅん)」

江戸時代の絵師、呉春(ごしゅん)は、社交的で粋、そして卓越した芸術家としてのセンスを兼ね備えた人物でした。多彩で幅広い画技を持ち、生涯に何度か画風を変えています。今回はのちに「四条派」と呼ばれる京都画壇の一派を創設した、呉春について少しお話しいたします。

百花繚乱の京都画壇で喝采を博した絵師

呉春(1752-1811年)は、江戸時代中期から後期に活躍した絵師(画人)です。本姓を松村(まつむら)、名は豊昌(とよまさ)であり、雅号では呉春、月渓(げっけい)が広く知られています。

呉春は京都の金座年寄役(総取締役)の家で、長男として生まれました。当初は家業を継ぎ金座の平役を務めています。収入も良く非常に裕福であったようで、京都島原の太夫・雛路(ひなじ)を身請けし妻としていたことからも窺えます。

俳諧(俳句)や絵画、横笛などの旦那芸(なぐさみの習い事)もさらりとこなし、その人柄は都会的で粋で社交好きでありました。

金座……江戸幕府において金貨鋳造や鑑定・検印を行った組織

旦那芸でとどまらない才能

1770年頃から大西酔月(おおにし・すいげつ)に師事します。まずは漢文を習得することから始まりました。1773年頃にはさらなる研鑽を積むために与謝蕪村(よさ・ぶそん)の内弟子となっています。

蕪村から俳諧や南画(文人画)を学び、その情趣に富んだ画風に強く影響を受けました。最初は趣味であり余技でしたが金座を辞し、本格的に俳諧師、絵師として身を立てていくこととなります。

大西酔月(生年不詳-1772年)

江戸時代中期に京都で活躍した絵師。山水画や人物画が得意であったといわれています。晩年は元や明時代の古画を良く描いていたそうです。

天明の絵師

1781年3月、呉春は海難事故で愛妻を亡くし、同年8月には実父を失うという連続の不幸にみまわれました。

心身共に傷ついた呉春を案じた蕪村の勧めで、パトロンであった蕪村門下の商人・川田田福の支援を受け、現在の大阪府の池田、当時の地名は呉服里(くれはのさと)で静養生活を送ることになります。

翌年この地で新春を迎えたことに感銘を受け、これを機に『呉春』と改名し、心機一転を図りました。池田で滞在している間の画風は、蕪村を思わせる力強い画風があり、人物画や花鳥画、そして俳画を残しています。

蕪村は自作の俳諧と画を合わせた俳画を制作していましたが、呉春は蕪村らの俳諧に自画を添えることが多かったようです。写実画を描き始めるまでの時期は、「池田時代」または「天明時代」と呼びばれています。

また司馬遼太郎氏による短編小説『天明の絵師』では、蕪村、応挙と共に呉春の生涯が描かれています。

異なる天才絵師たちと巧みに対比させたこの短編は、名作を朗読で提供しているAudibleで楽しむことができます。故・永井一郎氏の見事な朗読は感動的で、一聴の価値があることでしょう。

与謝蕪村(1716年-1784年)

江戸時代中期の俳人であり絵師。松尾芭蕉・小林一茶と並ぶ、江戸時代の俳諧の三大巨匠のひとり。俳諧と絵画を融合した俳画の創始者です。

蕪村の俳諧は情景がありありと浮かび上がる、まるで絵画のような句であると評されています。代表作は『春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな』。

四条派の誕生

1788年、天明の大火で焼き出された呉春は、避難先で応挙と共に生活したことをきっかけに、写実画へと作風を変化させています。応挙と急速に親交を深めた呉春は、師である蕪村の南画とはまったく異なる円山派の写実画風に傾倒しました。

この時、既に蕪村を亡くしていた呉春は、応挙に弟子入りしようとしました。しかし蕪村と交流があった応挙は、弟子ではなく莫逆の友として厚遇しています。これは呉春自身の画才を認めていたからです。

呉春は蕪村から学んだ画風に、応挙譲りの写生を取り入れることで、すっきりとしながらも感情豊かな画風を確立しました。応挙が亡くなった後は京都画壇の中心となり、呉春が四条通周辺に居を構えていたことから、その画派は「四条派」と呼ばれるようになります。

実は「四条派」または「円山・四条派」と定義されたのは、明治時代に入ってからです。1882年、第1回内国絵画共進会が開催された際に、他の画派である「浮世絵派」や「狩野派」と区別するために政府が用意した名称でした。

円山応挙(1733年-1795年)

江戸時代中期~後期の絵師。狩野派を学び、洋風画の透視的遠近法や陰影法、そして明清の写生画体を日本の伝統的装飾画に融合しました。

つまり当時存在したさまざまな画風を勉強し、そこに当時の最先端であった写生を取り入れることで、誰もが満足するような画風を確立したのです。新しいスタンダードとなったこの技法は「円山派」として受け継がれ、現在も日本画界に大きな影響を与えています。

諸説はありますが、足のない幽霊を描き始めたのは応挙だと伝えられています。

誰でも親しめる呉春の世界

呉春は他の人とは違う「自分の様式や画法を突き詰める」というような追求心は持っていなかったと評されています。芸術家としての個性はあっても作品の個性はなく、呉春自身は技法や様式を確立してはいませんでした。

例えば師である蕪村風の絵を求められれば描ける、依頼通りの画風で描くことができてしまうとても器用な絵師でした。確固たる「これが私の芸術である」ものを持ちえなかったため、蕪村亡き後は圧倒的なシェアを誇った応挙に惹かれたのでしょう。

呉春は人生の前半生を蕪村に学び、そして後半生を応挙に学びました。南画を基盤に写実画を掛け合わせたような、感情豊かで情緒的な画風は、繊細で独特です。そのため現代でも高い評価を得ています。

そして近代画壇へ

難解さを排した無駄のない筆致と構図で描かれる呉春の作品は、俗っぽさがなく、すっきりとしています。肩の力を抜いて味わえる画風であり、美術の専門家にはもちろん、絵画を詳しく知らない人にも人気があります。

門下には優秀な人物が多いことでも有名で、岡本豊彦、柴田義董など名立たる絵師を輩出しています。

師から多くを吸収しつつも、決して物まねではなく、独自の芸術を崩すことのなかった呉春。その実績は優れた成果をもたらし、現代まで続く京都画壇の主流となっています。

まとめ

近代画壇へとつながる四条派の始祖、呉春について少しお話ししました。江戸時代末期の京都は、庶民たちの文化が成熟の時を迎えた時代でもあります。

個性的な人ばかりだった京都画壇の絵師たち、呉春はそのひとりです。大家である師の蕪村や盟友応挙の名声に霞んでしまいがちですが、彼の功績は大きく讃えられるべきなのでしょう。

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