川瀬巴水(かわせ・はすい)
明治16年<1883>~昭和32年<1957> 東京都出身。
伊東深水、吉田博らと並び、新版画運動の旗手として活躍した版画家。本名は文治郎。青柳墨川、荒木寛友に日本画を学び、白馬会で洋画を修めた後、1910年に鏑木清方へ入門し、「巴水」の号を得ました。
その後、衰退した日本の浮世絵版画復興のため、版元・渡邊庄三郎と共に新しい浮世絵版画、”新版画”を確立。近代風景版画の第一人者であり、日本各地を旅行し、旅先で写生した絵を原画とした版画作品を数多く発表しました。
その日本的な美しい風景を、叙情豊かに表現した作風から、”旅情詩人”、”旅の版画家”、”昭和の広重”などと称されます。米国の鑑定家ロバート・ミューラーの紹介により、欧米で広く知られ、国内よりもむしろ海外での評価が高く、浮世絵師の葛飾北斎、歌川広重らに並ぶ人気を誇っています。
川瀬巴水は生涯にわたり600点もの版画を制作した。雪・月・雨などを題材とした詩情的な風景版画を得意としており、同じ色を何度も重ね色に深みを持たせたり、色鉛筆で描いたような線など独自の表現方法を編み出したりしている。全国各地にスケッチ旅行に出かけ、情緒豊かな風景版画を制作することから旅情詩人とも呼ばれました。
川瀬巴水の代表作は、旅みやげ第一~三集、東京十二題、日本風景集東日本編などのシリーズものがある。単作では日光街道、平泉中尊寺金色堂などがあります。
浮世絵版画の誕生と隆盛
江戸時代、絵師・彫師・摺師の3者の協働によって制作された浮世絵版画は、歌舞伎の人気役者を描いた役者絵などに見るようにメディアとしての役割を果たし、庶民の人気を集めました。ここで浮世絵版画には、制作と販売を監督する「版元」が存在しました。版元は浮世絵を求める庶民の需要に応じて制作の方針を決め、その下で絵師・彫師・摺師の3者が作品の制作を手がけました。
浮世絵版画の衰退
明治時代においては、江戸の浮世絵版画の伝統を引き継ぎつつ、近代化がもたらす新しい社会を描く時事報道的な木版画の需要が大いに高まった。その例に、西洋世界との往来の港口となった横浜の様子を伝える横浜浮世絵、文明開化がもたらした景観や風俗などを描いた開花絵、そして西南戦争や日清戦争といった戦争の様子を伝える戦争錦絵が挙げられます。
また、小林清親が手がけた「光線画」は、夕闇の風景や近代化に伴って導入された人工の光を、明暗の繊細なコントラストで表現し、従来とは異なる木版画表現を切り拓きました。しかし、近代化が推進された明治時代は、版画・印刷の技術の過渡期であった。時代とともに、文明開化に前後して西洋から伝わった版画技術。
精巧で緻密な表現が可能な銅版や大量複製に適した石版、そして写実性に秀でた写真が浸透。多色刷り木版画は、徐々に主要なメディアとしての役割をそれらに譲ってゆく、そうしたなかで木版画は、明治時代に生まれた新聞・雑誌の挿絵、単行本の口絵や美術図版の製作、あるいは浮世絵の複製などに道を見出してゆくことになった。
メディアの転換が生じるなか、絵師・彫師・摺師の3者からなる江戸時代以来の版元制度も崩壊しつつありました。絵師は、展覧会に出品される肉筆画が重視されるようになるにつれ、版画制作者から画家へと身分の脱却を図った。
一方、新聞や雑誌には活字と組み合わせて美麗な木版口絵が多く採用されたため、彫師はここに役割を見出すことに。そして残る摺師は、伝統的な三者協働体制に自らの場所を持つ。結果、かつては版元の中に収まっていた3者が異なる役割へと離散し、あるいは廃業せざるをえない状況に追い込まれたのでした。
新版画の誕生
このように明治期を通じて、メディアの需要の高まりに応じるなかでかろうじて自らの道を見出した木版画は、複製性を強く帯びるようになります。また、ヨーロッパ、ついでアメリカでは浮世絵が高い人気を誇り、浮世絵複製の需要が急激に高まるようになる一方で、日本国内においては概して認識も評価も低いというのが実情でした。
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