目次
はじめに
世界的に有名な「ピョートル大帝」や「エカチェリーナ大帝」といった偉大な皇帝たちが君臨したロシアは、ヨーロッパ列強の一員でした。
ロマノフ王朝の支配下で、ロシアは西欧化の方向に進化し、文化、政治、軍事の面で重要な進歩を遂げます。
ロマノフ王朝の消えた財宝
ロシアを統治したロマノフ王朝の始まりは1613年に皇帝となったミハイル=ロマノフに始まり、18世紀にロシア帝国として大国となります。
ロシア革命が起こる1917年までの約300年の間に、名匠による宝飾品など、膨大なコレクションを蓄積していました。
・正当な王権を象徴する「レガリア」
・ファベルジェの「インペリアル・イースター・エッグ」
・200カラットのサファイアが埋め込まれた皇帝の地球儀
・皇帝の王冠
・婚礼用王冠
そして、ネックレスやブレスレットなど宝飾品の傑作、金貨や金塊も含まれていました。
そして第一次世界大戦中に起こったロシア革命により、ロマノフ王朝は終焉を迎えます。最後の皇帝ニコライ2世の4女、アナスタシア皇女の伝説は「20世紀最大の謎」のひとつとされ、世界中の人々を魅了してやみません。
最後にロシアを支配したロマノフ王朝が所有していた財宝が、世界中に散らばっているのではないかと、実しやかにささやかれています。一説によると日本にもあるかもしれない、そんな話があるのです。
ロシア最後の王朝「ロマノフ王朝の歴史」
ロマノフ王朝の成立
モスクワ大公国の「雷帝」として知られたイヴァン4世が亡くなり、次のフョードル1世の死によって、1598年にリューリク王朝は断絶しました。その後、十数年にわたる動乱時代が続きます。
この時期、外国の干渉、特にポーランドなどからの介入が増加し、モスクワは一時的にポーランド軍に占領されるという危機的状況に直面しました。
モスクワの存続を確保するため、国内の貴族は団結し、ポーランド軍を撃退しました。その後、1613年の全国会議で、わずか16歳のミハイル=ロマノフがツァーリ(皇帝)に選ばれました。
ロマノフ家は以前から貴族でしたが、ボリス=ゴドゥノフが皇帝となった際、彼らは妖術で皇帝を殺そうとしているとの疑いをかけられ、当主のヒョードルはフィラレートと名を変え修道院に入れられてしまうのです。
ロシアの貴族たちはポーランドの捕虜となっていた、ヒョードル(フィラレート)の息子であるのミハイルを、皇帝として担ぎ出したのです。
ミハイルは自ら帝位を望んだのではなく、貴族から選ばれた皇帝でした。これにより、モスクワを首都とするロシア国家にロマノフ王朝が誕生したのです。
ロマノフ王朝の発展
1648年、ロマノフ王朝の第2代皇帝(ツァーリ)であるアレクセイの時代に、現在のウクライナの草原地帯で、リトアニア=ポーランド王国の支配下にあったコサックのボグダン=フメリニツキーが反乱を起こしています。
その結果、コサックはロマノフ王朝に支援を求めました。この出来事以降、ウクライナのコサックはロシアとの関係を強めます。
1654年にはロマノフ王朝に臣従することが合意されました。
ロシアとリトアニア=ポーランド王国によるウクライナを巡る戦争は、1667年に講和協定が結ばれました。
ロシアはその結果、ウクライナ(かつてのキエフ公国)の東半分とキエフ市を奪還し、領土を西方に拡大します。さらに、1670年には農民反乱の指導者であるステンカ=ラージンの反乱を鎮圧し、農奴制を強化する成功を収めました。
同時に、ロマノフ王朝は徐々に西欧的な国家機構の整備を進め、貴族世襲制から官僚制と常備軍に支えられた絶対主義国家へと変貌していくのです。
ツァーリズムの完成
厳しい権力闘争が繰り広げられる中で、ピョートル1世(在位1682~1725)は著名で、彼は北方戦争に勝利してバルト海地域を制し、新しい都市であるサンクトペテルブルク(ペテルブルク)を1712年に建設しました。
この戦争と都市建設はロシアをバルト帝国として強力な国に変え、強大な中央集権のもとで「上からの改革」を推進しました。この時期に「ルーシ」から「ロシア」へと正式に国号が変更され、「ロシア帝国」の実体が確立されました。
同時に、ロシア帝国の絶対君主体制であるツァーリズムもこの時代に完成しました。
18世紀後半にエカチェリーナ2世(在位1762~1796)が即位すると、彼女は一時はフランスの啓蒙思想に共感し、西欧化を促進します。一方で、領土の拡大にも尽力。この時期には西欧諸国で産業革命が進展し、資本主義経済が急速に発展していました。
しかし、農奴制に依存した社会構造が立ち遅れを招き、近代化が遅れて社会矛盾が深刻化。拡大する西欧との文明的・文化的な差を留めることができませんでした。
ロマノフ王朝の動揺
19世紀のロマノフ王朝にとって、専制政治(ツァーリズム)を維持しながら上からの一定の社会改革、近代化を図ることが課題となっていきました。また、西欧列強に互していくためにバルカン半島、イラン方面への南下政策を積極的に展開しました。
しかし、市民革命後の国民国家の形成と産業革命を進めた西欧諸国に対してロシアは絶対王政と封建制を維持していたため産業の近代化が遅れ、国民生活を圧迫し、西欧諸国との矛盾が深くなっていきました。
そのような動揺の時代の中から知識人の中に、社会主義思想や革命思想が形成されていくのです。
ロマノフ王朝の崩壊・滅亡
1904年、帝国主義国として南下政策を進めるロシアと、朝鮮半島の独占を目論む日本とが衝突することになります。いわゆる日露戦争の開戦です。
力の差は圧倒的といわれたロシアですが、日本に負けてしまう結果になります。
ただでさえ国内はガタガタの状態なのに、日露戦争に負けてしまうことによってロマノフ王朝に対する国民の信頼は地に落ちてしまいます。
1905年の「第1次ロシア革命」、そして第1次世界大戦中の「第2次ロシア革命」は、いずれも民衆の暴動から始まります。
社会主義思想や革命思想が形成された知識人達が革命を先導しています。
1917年に世界最初の社会主義政権ソヴィエト=ロシアが誕生。
これによりソヴィエト政府のトップであるウラジーミル・レーニンは、ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世を始めとした皇帝一家の処刑を決断しました。これが、300年続いたロマノフ王朝の最期なのです。
世界中に散らばってしまった秘宝
ソヴィエト政府はロマノフ王朝が創り上げてきた全てを破壊し、新しいロシアを創ろうとしました。
動揺・崩壊という動乱の最中、破壊されることを恐れたロマノフ王朝の財宝は世界中に散らばっていきす。
一節によると日露戦争の最中に、ロシア軍の高官から日本軍へ渡った財宝があるといわれています。数
年前にロシア高官が北方領土問題に触れた時に、「クリル諸島を返還を望むのであれば、日本は帝政ロシアの財宝を返還せよ」と発言したのは周知の事実です。
「インペリアル・イースター・エッグ」
ロマノフ王朝の財宝で、おそらく最も有名なのは「インペリアル・イースター・エッグ」でしょう。これは金細工師ファベルジェによって製作された、宝石で装飾した金製の卵型の飾り物です。
1885年から1916年の間にロマノフ王朝ロシア皇帝アレクサンドル3世とニコライ2世によって納められた「イースター・エッグ 50個」を指します。
多くのインペリアル・イースター・エッグは発見され、ロシアやアメリカなどにあります。ところが、行方不明となっていた8個の中の1個がアメリカの蚤の市で、くず鉄業者によって買い取られていた事実が明らかになりました。
ロマノフ王朝の財宝はインペリアル・イースター・エッグだけではありませんが、この事例のように本当に世界中に散らばってどこにあるかわからない状態なのです。
まとめ
ロマノフ王朝とその財宝についてお話しいたしました。栄枯盛衰という言葉がありますが、長きに渡り繁栄を築いたロマノフ王朝も、最後は皇族の銃殺で幕を閉じました。
動乱の最中に散り散りバラバラになったロマノフ王朝の財宝は、まだすべて見つかっていません。日本にもあるということが事実なのであれば、それはどこで眠っているのでしょうか。