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柿右衛門の美しさが光る!「濁手」有田焼の魅力

柿右衛門の美しさが光る!「濁手」有田焼の魅力

柿右衛門の「濁手」有田焼は、独特の白さと美しいデザインが魅力です。この記事では、柿右衛門の濁手がどのように有田焼の伝統を受け継ぎ、美しさを表現しているのかを詳しく解説します。

はじめに

濁手(にごしで)とよばれる、透明感と暖かみのある乳白色のバックに余白を十分に残し、極めて繊細な黒い線と色鮮やかな赤・緑・黄・青で大和絵的な花鳥風月を左右非対称的で描写的に描いた様式のことです。後期には、この4色に紫や金も加わるようになります。

器の口縁に「口銹(くちさび)」と呼ばれる銹釉が施されている作品も多く見られます。図柄には「岩梅に鳥」「もみじに鹿」「竹に虎」「粟に鶉」などの典型的なパターンも特徴的です。

柿右衛門様式の色絵磁器は輸出用色絵磁器として飛躍的に発展し、数多くの作品がヨーロッパに渡り、ドイツのマイセン窯などでは、この模倣品もたくさん作られていました。

同時に、磁器発祥の地とも言われている中国の「景徳鎮窯」にも多大な影響を与え、同様の作品が作られ、これらもヨーロッパのほうへ輸出されていました。また、有田焼の様式のひとつ。初代柿右衛門が確立した磁器の様式で、乳白色の素地「濁手(にごしで)」に色絵を施す。

広い余白を残した絵画的な構図が特徴。単に「柿右衛門」とも呼ばれています。

柿右衛門とその歴史

江戸時代前期

17世紀の後半、有田・南川原の地に美しい色絵磁器が誕生しました。精巧に形造られた乳白色の美しい素地に、優美な文様を鮮やかな絵具であらわしたそのやきものは、日本のみならず、欧州にも渡り世界的に称賛を浴びました。

それらは今日、「柿右衛門」あるいは「柿右衛門様式磁器」と呼ばれています。「柿右衛門」の名を冠するのは、その様式の開発者であり、最も上質な製品を作ったのが酒井田柿右衛門率いる柿右衛門窯であったことからとされています。

柿右衛門窯は江戸時代初頭に始まりました。以来、代々酒井田家当主がその名と共に継承し、現当主の十五代まで連綿と続いています。歴代のなかで最も有名なのは、初代柿右衛門(1596~1666)でしょう。

酒井田家に伝わる文書『赤絵初りの覚』には、1647年頃に、初代柿右衛門が苦労の末に赤絵(色絵磁器)の焼成に成功したことが記されています。近年の発掘調査の成果からも、1640年代には有田で色絵磁器の生産が始まったことが明らかとなっています。

日本初の磁器が有田で誕生したのは1610年代のことで、その草創期に生産されていたのは染付磁器や青磁でした。色絵技術という新たな表現方法を得て、有田における磁器生産はさらに発展し、1650年代末にはオランダ東インド会社によって欧州輸出が始まりました。

同社は上質な磁器を求めて厳しい注文を繰り返し、その要求に応えるように誕生したのが、細部までこだわった最上質の色絵磁器、柿右衛門様式磁器でした。

柿右衛門窯最も隆盛を誇ったのはその頃のことで、四代柿右衛門(1641~1679)と五代柿右衛門(1660~1691)の時代にあたります。31歳にして天寿を全うした五代柿右衛門は、まだ1歳だった六代のために、亡くなる前に七つの秘伝書を遺しました

。そのうちの一つが土の原材料や配合について記した『土合帳』で、そのなかの「御道具白焼土(おどうぐしろやきつち)こそ、乳白色の素地すなわち「濁手(にごしで)」に関する記述と考えられています。

しかし、六代柿右衛門の時代には、柿右衛門様式の流行は終わり、柿右衛門窯では金襴手様式磁器を作るようになり、いつしか濁手の生産は途絶えました。

江戸時代中期~後期

江戸中期から後期の柿右衛門窯では、染付磁器と色絵の金襴手様式磁器を主力商品として、主に国内向けの生産に従事していました。意外と知られていませんが、柿右衛門窯の製品は他の肥前で作られたやきものと同様に、日本海航路を中心とする流通網に乗って、全国に普及していました。

特に北前船(廻船)によって北は北海道まで運ばれた伊万里焼は、今でも日本海沿岸各地に遺ります。また、酒井田家文書を紐解くと、宮家・将軍家・大名家・商人など日本の上流階級からの注文が続いていたことが分かります。

旧家に伝わる伝来品もそのことを如実に伝えてくれます。しかし、窯の経営はけっして順調ではなく、困窮に苦しんだ時代も長く続きました。特に江戸後期から末期は、幕府の力が弱まり、世の中が大きく変わりました。

これまでの大名家を始めとする武家からの注文は途絶え、瀬戸などでも磁器の生産が始まったことで、有田生産規模や水準も落ち込んだようです。柿右衛門窯も例外ではありませんでしたが、歴代柿右衛門がそれぞれの時代において、様々な工夫を凝らしつつ、上質な磁器の生産を継承しようと努力していたことはいくつかの資料から窺えます。

近代~現代

明治の頃に活躍したのは十一代柿右衛門(1845~1917)です。国際博覧会などに積極的に出品し、数々の賞を受賞しました。しかし、大正から昭和の時代には戦争が続いたこともあり、苦しい時代は続きました。

真の意味で柿右衛門窯の再生に力を注いだのが十二代柿右衛門(1878~1963)と十三代柿右衛門(1906~1982)です。柿右衛門窯の歴史と伝統を振り返り、最も隆盛を誇った17世紀後期の頃に立ち返るべく、「濁手」の復興に取り組み、1953年に成功しました。

かつての栄光を取り戻すように、あたたかみのある乳白色の素地に、余白をたっぷりととった構図と、色鮮やかな上絵具で文様をあらわした柿右衛門様式磁器が完全に復活しました。瞬く間に評判となり、全国でも高い支持を得て、1971年には「濁手」の技術は重要無形文化財(総合)の指定を受けました。

これ以降、「濁手」の色絵磁器は柿右衛門窯の代表的な製品として定着しました。

1982年に酒井田家当主となった十四代柿右衛門(1934~2013)は、祖父と父の偉業を継承するように積極的に個展活動を行いました。華やかな色絵磁器は国内外が高く評価されて、2001年に色絵磁器の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。

惜しまれながら2013年に他界し、現在は十五代柿右衛門(1968~)が当主を務めています。

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柿右衛門の白い美「濁手」有田焼、柿右衛門の歴史についてご紹介しました。

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