ロマノフ王朝の成立
ロシア国家であるモスクワ大公国の“雷帝”イヴァン4世が死去、1598年にリューリク朝が断絶し、その後十数年にわたって動乱時代が続いた。この間、ポーランドなどの外国の干渉が強まり、モスクワも一時ポーランド軍に占領される状態となったため、国家を維持するために貴族が結束し、ポーランド軍をモスクワから撃退しました。その後ロシアの貴族たちは、1613年の全国会議で16歳のミハイル=ロマノフをツァーリ(皇帝)に選出しました。
ロマノフ家は貴族の一つであったが、ボリス=ゴドゥノフが皇帝となったとき、妖術で皇帝を殺そうとしているとの疑いをかけられ、当主のヒョードルはフィラレートと名を変えられて修道院に入れられてしまいました。そのフィラレートの息子のミハイルがポーランドの捕虜となっていたのを、ロシアの貴族達が担ぎ出したのです。つまり、ミハイルは自ら帝位を勝ち取ったのではなく、貴族から選出された皇帝であったのです。しかしこれによってモスクワを首都とするロシア国家、ロマノフ朝が成立した。
ロマノフ朝の発展
第2代ツァーリ(皇帝)のアレクセイの時の1648年、現在のウクライナの草原で、リトアニア=ポーランド王国の支配を受けていたコサックのボグダン=フメリニツキーが反乱を起こし、ロマノフ朝に支援を要請した。それ以来、ウクライナのコサックはロシアとの関係を強め、1654年にロマノフ朝のツァーリに臣従することとなりました。ウクライナを巡るロシアとリトアニア=ポーランド王国の戦争は、1667年に講和となり、その結果、ロシアはウクライナ(かつてのキエフ公国)の東半分とキエフ市を奪還し、領土を西方に拡張した。1670年には農民反乱のステンカ=ラージンの反乱を鎮圧して、農奴制の強化に成功し、また徐々に西欧的な国家機構の整備を進め、貴族世襲制の国から官僚制・常備軍に支えられた絶対主義国家へと変貌していくのです。
ツァーリズムの完成
その間、厳しい権力闘争が展開されたが、それに勝利したピョートル1世(在位1682~1725)は、1712年に新都ペテルブルクを建設し、スウェーデンとの北方戦争に勝利してバルト海を押さえ、バルト帝国といわれる強国をつくりあげ、強力な権力のもとで「上からの改革」を断行しました。このころから「ルーシ」に代わって「ロシア」が正式な国号とされ、「ロシア帝国」としての実体を成立させました。またロシア専制君主体制を意味するツァーリズムもここに完成したと言えるでしょう。18世紀後半にはエカチェリーナ2世(在位1762~1796)は一時はフランス啓蒙思想に共感し、西欧化を推進、一方で領土拡張に努めたが、しかしこのころ、西欧で産業革命が進展し、資本主義経済が急速に発展していきました。それに対して、ロシアは上からの改革を進めたものの、農奴制に依存した社会の立ち遅れは次第に明確となっていき、西欧との文明的・文化的な差は大きくなっていきました。
ロマノフ朝の動揺
19世紀のロマノフ朝にとっては専制政治(ツァーリズム)を維持しながら上からの一定の社会改革、近代化を図ることが課題となっていきました。また西欧列強に互していくためにバルカン半島、イラン方面への南下政策を積極的に展開しました。しかし市民革命後の国民国家の形成と産業革命を進めた西欧諸国に対してロシアは絶対王政と封建制を維持していたため産業の近代化が遅れ、国民生活を圧迫し、西欧諸国との矛盾が深くなっていきました。そのような動揺の時代の中から知識人の中に、社会主義思想や革命思想が形成されていくのです。
ロマノフ朝の崩壊・滅亡
1904年、帝国主義国として南下政策を進めるロシアと、朝鮮半島の独占を目論む日本とが衝突することになります。いわゆる日露戦争の開戦です。力の差は圧倒的と言われたロシアですが、日本に負けてしまう結果になります。ただでさえ国内はガタガタの状態なのに、日露戦争に負けてしまうことによってロマノフ朝に対する国民の信頼は地に落ちてしまいます。1905年の第1次ロシア革命、第一次世界大戦中の第2次ロシア革命はいずれも民衆の暴動から始まります。社会主義思想や革命思想が形成された知識人達が革命を先導し、1917年に世界最初の社会主義政権ソヴィエト=ロシアが誕生することになります。ソヴィエト政府のトップであるウラジーミル・レーニンは、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世を始めとした皇帝一家の処刑します。これが、300年続いたロマノフ朝の最期なのです。
ロマノフ朝のお宝とは?
ソヴィエト政府はロマノフ朝が創り上げてきた全てを破壊し、新しいロシアを創ろうとしました。動揺・崩壊という動乱の最中、破壊されることを恐れたロマノフ朝の財宝は世界中に散らばっていきました。「インペリアル・イースター・エッグ」という物があります。金細工師ファベルジェによって製作された宝石で装飾した金製の卵型の飾り物のうち、1885年から1916年の期間にロマノフ朝ロシア皇帝アレクサンドル3世とニコライ2世に納められたイースター・エッグ50個を指します。
多くのインペリアル・イースター・エッグは発見され、ロシアやアメリカなどにありますが、行方不明となっていた8個の中の1個が米国ののみの市でくず鉄業者によって買い取られていたという事実が明らかになりました。ロマノフ朝の財宝はインペリアル・イースター・エッグだけではありませんが、その事例のように本当に世界中に散らばってどこにあるかわからない状態なのです。一節によると日露戦争の最中に、ロシア軍の高官から日本軍へ渡った財宝があると言われています。数年前にロシア高官が北方領土問題に触れた時に、「クリル諸島を返還を望むのであれば、日本は帝政ロシアの財宝を返還せよ」と発言したのは周知の事実です。
まとめ
いかがだったでしょうか!?栄枯盛衰という言葉がありますが、長きに渡り繁栄を築いたロマノフ朝も最後は処刑されてしまいます。動乱の最中に散り散りバラバラになったロマノフ朝の財宝で、見つかっていない物はどこにあるのでしょうか?日本にあるということが事実なのであれば、それは今誰が持っているのでしょうか?