時代と彫刻の歴史
日本最古の歴史書「日本書紀」によると、仏教が日本に伝えられたのは飛鳥時代(538-710年)です。寺の建築様式や仏像などを見てもわかるように、仏教は彫刻の表現や手法にも大きな影響をもたらしています。なおこの時代に制作された彫刻の多くが木彫りです。 平安時代(794-1185年)には日本全土に仏教が普及し、仏像や建築などにもその土地の独自性が見られるようになりました。また特筆すべきは仏像のみならず、神道の神もこの頃より偶像化されるようになりました。なお彫刻の素材としてはクスノキのほか、ヒノキやナツメグなどが多く用いられています。
江戸時代の代表的な彫刻作品といえば、やはり日光東照宮でしょう。三代将軍徳川家光の指揮の下に建てられた日光東照宮は、建物全体が5000体以上もの彫刻で覆われていることで知られています。そのうちの508体は陽明門に刻まれた彫刻で、神話や民話に登場する龍や賢人、動物などが極彩色で表現されています。 明治時代に入ると、西洋文化の影響を受けた技法や素材の彫刻が創作されるようになりました。現代では金属やプラスチック、ステンレスはもとよりバナナや鉛筆の芯など、ありとあらゆる素材が彫刻に用いられています。
さらに伝統的な技法や美意識も脈々と受け継がれており、日本の彫刻芸術は進化し続けています。 神奈川県にある箱根 彫刻の森美術館は、日本人はもとより、訪日旅行者も多く訪れる観光スポットです。ここには1日では見て回りきれないほどの、数多くの、そしてバラエティに富んだ彫刻作品が屋外展示されています。また子どもの豊かな感性や心を育てる目的から、触れたり登ったりできる彫刻が多いのもこの美術館の特徴です。
世界的な日本の天才彫刻家 イサム・ノグチ
日本で最も偉大で天才的な彫刻家といえば、イサム・ノグチに他ならないでしょう。 ではイサム・イグチとは一体どんな彫刻家なのか、深掘りしていきましょう。 1904年、イサム・ノグチは日本人の父とアメリカ人の母の間にロサンゼルスで生まれました。20世紀最も偉大な彫刻家として有名で、家具や遊具、公園、モダン。ダンスの舞台美術など活動は多岐に渡ります。 日米2つの血がある芸術家イサム・ノグチ。
しかし、当時はハーフが珍しくイサムにとっては行きづらい世の中でした。母親のレオニーはイサムの教育に不安を感じ、日本に向かい横浜のインターナショナルスクールに入学させました。レオニーはイサムをアメリカ人として生きさせる覚悟をし、「イサム・ギルモア」という名前で学校に通いました。しかし、学校では日本人だと仲間外れにされてしまうのです。 そのため13歳になったイサムはアメリカ・インディアナ州にある寄宿学校に通うことになりました。しかし、ここでも問題が起こります。間も無く戦争が始まり、学校が閉鎖されることになったのです。
その後、イサムは寄宿学校の校長に引き取られ、高校卒業までこの恩人の元で過ごしました。そしてイサムはコロンビア大学に通うことになりました。イサムは芸術家ではなく医学の道を選んでいたのです。その大学でイサムは思わぬ人と出会います。日本の苗字と一緒である「野口英世」でした。イサムは英世から「君の父、野口米次郎は素晴らしい作家だ」と聞かされました。イサムは幼い頃に父と別れ会ったことがありませんでした。しかし、「野口米次郎」という名前だけを覚えていたのです。
イサムは初めて自分の父親が当時の世界で最も有名な日本人作家ということを知ったのです。 イサムは英世から話を聞いた後、すぐにコロンビア大学を退学してしまいました。そして、レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校に入学しました。またイサムは思い切った行動を起こします。今まで名乗っていた「イサム・ギルモア」ではなく「イサム・ノグチ」に変更したのです。 イサムはこのような言葉を残しています。 「私の父 ヨネジロウ・ノグチは、日本人であり、詩を通じて、西洋に対して東洋を理解せしめた人物として早くから知られています。私はこれと同じ仕事を彫刻によって行いたいのです。」 この言葉には父への憧れが感じ取れます。
この時、芸術家イサム・ノグチは誕生しました。 1927年、イサムはパリへ留学をしました。芸術に都パリで少しずつ頭角を表しきました。抽象彫刻や肖像彫刻まで様々な作品を制作し、若手彫刻家として評価されるようになりました。 1930年、イサムは憧れの父に会うために日本へ帰国した。最初は拒否していた米次郎だったが、会った時には約20年の空白がなかったように連れ添っていたようです。 しかし、そんな幸せな時間もすぐに終わりが来てしまいました。戦争が始まり、アメリカ人が日本に入れるような環境ではなかったのです。終戦した時、イサムは父の安否を確認するために日本に手紙を送りました。しかし、米次郎は亡くなっていました。
終戦から5年後、イサムは再び来日しました。日本では彫刻だけではなく、庭園づくりなど総合芸術家として日本でもその名を広めていきました。 日本で暮らしていくことを決意したイサム。日本の大女優である山口淑子と結婚しました。結婚したイサムの作品にも変化が現れました。素焼きの焼き物や和紙を使った作品作りにも没頭しました。 和紙でデザインされたライトはインテリアとして今でも人気があります。 イサムはある仕事を強く望みました。それは広島の原爆慰霊碑です。日本とアメリカの血を持つイサムだからこそ制作したいと強く願ったのです。しかし、制作を取りかかる直前に日本中から「イサム・ノグチはアメリカ人だ」とイサムを拒む声が続出しました。結局イサムは慰霊碑を制作することはできませんでした。その後、イサムは離婚も経験しました。元妻の山口淑子も「イサムはあまりにもアメリカ人でありすぎました」と語っています。 日本人に受け入れられなかったイサム。それ以来、活躍の場を再び世界に求めました。
1956年には留学経験もあるパリで『ユネスコの庭園』を制作。 1960年にはイスラエルで『ビリー・ローズ彫刻庭園』を制作。 1970年には日本で大阪万博の噴水を制作しました。 世界中を飛び回り、次々と新しい作品を制作していきました。しかし、そんな売れっ子芸術家イサムでもただひとつ、思った通りに作品にできないものがありました。それは石です。注意を払って加工しても石は思わぬ形で割れてしまうのです。 次第にイサムはこの石との戦いに多くの時間を使い始めました。世界各地の石を相手に果てしない戦いを繰り返していました。しかし、なかなか良い石とは出会うことができず諦めかけていました。そんな時、再び来日したイサムは香川県に向かいました。
そこでの1人の石工職人との出会いがイサムの芸術人生を新たな局面に向かわせることになりました。ひとつひとつの石とさらに向き合い石から加工したと思えない作品をいくつも制作しました。 イサムは石を通して失敗をあるがままに受け入れるようになりました。それ以降もイサムの作品は少しずつ変化していきました。思い通りの形にすることにさほど拘らなくなり、何も加工せず自然の石も作品として使用するようになりました。 イサムと石との対話は途切れることはありませんでした。瀬戸内海の小さな町にアトリエを構えていたイサム・ノグチ。1988年12月30日、84歳で亡くなりました。イサムは死んだら石の中に入りたいと語っていたそうです。
まとめ
いかがだったでしょうか。2つに国の血を持っているが故に様々な困難に直面したイサム。どんな時でも作品と向き合い自分を表現した彼にすごく感動しました。 日本にもイサム・ノグチが残した作品や家具が多くあるので気になる方は自分の目で確認してみてくださいね。