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日本の写実的な画家 渡辺崋山(わたなべ かざん)について

日本の写実的な画家 渡辺崋山(わたなべ かざん)について

渡辺崋山は江戸時代後期の武士、画家です。政治的な弾圧を受け、それがもとで自殺に追い込まれた不幸な学者であったとともに、日本の近代化の先駆者でした。崋山は政治家であり、画家としても業績をあげています。

渡辺崋山とは

渡辺 崋山(わたなべ・かざん)は、江戸時代後期の武士、画家。三河国田原藩士・家老。通称は登(のぼり)、諱は定静(さだやす)。号の崋山ははじめ華山で、35歳ころ改めた。別号は全楽堂、寓画堂など。贈正四位。1839年に幕府によって罰せられた(蛮社の獄)。

画家や文人としては

華山は年少の頃より生計を支えるために画業を志した。最初、大叔父の平山文鏡に画の手ほどきを受け、続いて白川芝山に師事したが付届けができないことを理由に破門された。これを憐れんだ父は、藩主の姻戚の家来というつてを頼って金子金陵に崋山の弟子入りを頼み、受け入れられた(文化6年=崋山17歳[8])。

金陵は崋山に眼をかけ、崋山の画力は向上した。このころ、初午灯篭の絵を描く内職を手がけた。崋山によれば百枚書いて、銭一貫だったというが、このときに絵を速く描く技術を身につけたことは、後年の紀行文中の素描などに大きく役立ったであろうことがうかがえる。さらに、金陵の師である谷文晁にも教えを受けた。

文晁は華山の才能を見抜き、画技のみならず文人画家としての手本となった。師の文晁に倣って南画のみならず様々な系統の画派を広く吸収した。文人画は清の惲寿平に強く影響されている。また肖像画は陰影を巧みに用いて高い写実表現に成功している。西洋画の影響があったことは間違いないがかつて例のない独自の画法を確立させた。

当時から華山の肖像画は人気があり多くの作品を画いた。代表作としては、「鷹見泉石像」「佐藤一斎像」「市河米庵像」などが知られる。

・滝沢琴嶺像 天保6年(1835年)の作。個人蔵、天理大学付属天理図書館寄託

・市河米庵像(部分) 天保8年(1837年)の作。京都国立博物館蔵、重要文化財

・五言絶句 東京国立博物館蔵(倚石疎花痩 帯風細葉長 霊均情夢遠 遺珮満沅湘)

こうした崋山の写実性へのこだわりを示す逸話がある。1835年(天保6年)、画家友達であった滝沢琴嶺(興継)が没し、崋山は葬儀の場で琴嶺の父・曲亭馬琴にその肖像画の作成を依頼された。当時、肖像画は当人の没後に描かれることが多く、画家はしばしば実際に実物を見ることなく、やむを得ず死者を思い出しながら描くことがしばしばあり、崋山の琴嶺像執筆もそうなる予定だった。

ところが崋山はそれを受け入れず、棺桶のふたを開けて琴嶺を覗き込んで素描し、さらに顔に直接触れたという(馬琴『後の為の記』)。これらは当時の価値観や風習から大きく外れた行動であった。元々崋山は貧しさをしのぐ目的もあり画業を始めたのだが、それが大きく花開き、また画業を習得する際に得た視野や人脈は、崋山の発想を大きくするために得がたいものとなった。代表作に当時の風俗を写生した「一掃百態図」など。

また、文人としては随筆紀行文である『全楽堂日録』『日光紀行』などを残し、文章とともに多く残されている挿絵が旅の情景を髣髴させるとともに、当時を文化・風俗を知る重要な資料となっている。弟子に椿椿山・福田半香などが育った。末弟の如山を椿山の画塾に入門させ将来を嘱望される画家としたが、僅か22歳で夭折した。

まとめ

渡辺崋山は江戸後期の蘭学者・画家。海防掛を兼ねた。佐藤一斎に儒学を、谷文晁(たにぶんちょう)に南画を学び、のち西洋画の技法を取り入れて写実的画風を確立。特に肖像画にすぐれた。「慎機論」を著し、幕政を批判したため蛮社の獄に連座して自刃。

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