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小判の現在の価値は?小判の価値~歴史のご紹介

小判の現在の価値は?小判の価値~歴史のご紹介

小判や大判は希少硬貨の代表です。骨董品としての価値があるだけでなく、小判は金としての価値もあります。小判の価値はその時の金価格にも左右される傾向があります。そのため、売りどきを選んでいくことが大事です。

はじめに

金としての値段が付かない小判から、古銭としての価値がでる慶長小判・万延小判は、売る店を間違えると金としての価値だけで買い取られてしまう場合があるため注意が必要です。今回はそんな大判小判について、歴史などにもふれながらご紹介していきます。

小判の歴史

小判とは、江戸時代に流通した金貨の一種です。形状は、小判形と呼ばれる楕円形で表面には全体的に打目が彫られ、上下に扇枠に囲まれた五三桐(ごさんのきり)、中央上部に「壹两」(=「一両」)、下部に「光次(花押)」の極印が打たれております。

楕円形、打目、黄金色が米俵の形状、俵目、色彩に由来するとの説が唱えられておりますが、反論も多くあり、内部まで金であることを証明するため打ち伸ばした「蛭藻金」や「譲葉金」の形状に起源を持つとか、打目も内部まで金であることを示すために刻まれたものであるとか、あるいは金地金を打ち伸ばすときに槌や鏨(たがね)によって不可避的に付く打目であるなどの説もかつては支持されました。

一般的に小判は「金貨」とされ純金のように見えるものが多いですが、実際は金銀合金です。外見上、金色に見えるのは、「色揚げ」と称して表面の銀を薬品と共に加熱して塩化銀として取り去る処理を施した結果です。

江戸幕府を開くに先立ち、徳川家康は大判より小型のものとし、墨書を極印に改め一般流通を想定した通貨を発行する構想を持っており、慶長6年(1601年)に徳川家康が後藤家に命じて鋳造させた慶長小判を嚆矢とし、万延元年(1860年)発行の万延小判まで10種が発行されました。

全国通用を前提とするものであるが、金山が主に常陸、甲斐、伊豆および佐渡などに位置し、金貨の一般通用は家康により新たに取り入れられた政策であったため主に関東地方を中心に流通しました。

小判の量目

文明16年(1484年)、室町幕府により京目(きょうめ)金一両は4.5匁(約16.8グラム)と公定されました。一両は日常生活では大変高額なものであり、例えば慶長小判一両であれば米3~4石を入手する購買力を持っており、財布に入れて使用するような性質のものではなく庶民には縁遠い存在でした。

また、小判も丁銀と同様に包封して百両包、五十両包あるいは二十五両包など包金として高額取引や献上・贈答用として用いられ、流通過程でも敢えて開封されることは殆ど無いらしいです。

特に金座の後藤包が権威あるものとして両替商らが為替金などを幕府に納入する際は後藤包であることが要求されました。包封せず裸のまま献上・贈答用として使用できたのは大判のみでした。

江戸時代に発行された小判一覧

・慶長小判(慶長6年(1601年)頃

・元禄小判(元禄8年(1695年)9月

・宝永小判(宝永7年(1710年)4月

・正徳小判(正徳4年(1714年)5月

・享保小判(正徳4年(1714年)8月

・元文小判(元文元年(1736年)5月

・文政小判(文政2年(1819年)6月

・天保小判(天保8年(1837年)7月

・安政小判(安政6年(1859年)5月

・万延小判(万延元年(1860年)2月

流通量が多かった小判

小判は徳川家康が始めた日本の通貨で、一般的に流通させることを目的としたお金です。そのため、多くの枚数を流通させるために量産の工夫が数多く施されています。大判には正式なものであることを示すために、後藤家の「墨書き」が表面に描かれていました。

しかしながら、すべて手書きで書かれていたということもあり、墨書きは大量量産に向きませんでした。そのため、小判では手書きではなく極印と呼ばれている箔押しのような手法が用いられています。

この技術のおかげで多くの小判を作成することが可能となっています。重さも大判よりも小さくなっていますので、多くを持ち運ぶことが容易となりました。ですが、重さに比例して金の含有量は低くなっており、小判は大判と比べて買取価格は低くなってしまいます。しかし、古銭の中では高く買い取られています。

小判は現在の価値で換算すると、プレミアの付いているもので200万程度の価格で取引されております。流通量が多い小判でも50万程で取引されております。

江戸時代前に発行された小判

駿河墨書小判(するがすみかきこばん)文禄4年 / 1595年 / 安土桃山時代

駿河墨書小判は日本で最古の小判ですが、その小判を鋳造させた大名は徳川家康であるのか、豊臣秀吉の家臣中村一氏であるのか、まだはっきりわかっていません。私たちがよく見る小判とは違い、肩がなく丸い形状をしているのが特徴です。

現在この小判は、たった数枚しか確認されておらず、100万~数千万円という価格で取り引きがされています。

武蔵墨書小判(むさしすみかきこばん)文禄4年 / 1595年 / 安土桃山時代

武蔵墨書小判とは、慶長小判の親とも言える金貨で、駿河墨書小判と並び、日本で最古の小判とされています。江戸に入った徳川家康が鋳造させた物とされ、表面には「武蔵壹两光次」と花押が墨書きされています。

この小判は、鋳造枚数も限られているうえに、改鋳された物もあるため、現存数は非常に少ない物となっています。現在100万円以上の価値が付いており、コレクターの間では人気の小判です。

江戸時代に発行された小判

江戸時代に入ると、小判は本格的に日常生活で使用され、庶民の間でもお金としての概念が浸透していきます。

慶長小判(けいちょうこばん)慶長6年 / 1601年 / 江戸時代

関ケ原の戦いがあった翌年の慶長6年(1601年)に発行された小判。慶長小判は、徳川家康による天下統一と、江戸幕府が初めて発行した貨幣としても有名で聞いたことがある方も一番多い小判でしょう。

この小判は江戸時代に鋳造された小判の中でも大型で、金の純度の高い立派な物でした。表面に刻まれているござ目には数種類あり、ござ目で鋳造時期も知ることが出来ます。

元禄小判(げんろくこばん)元禄8年 / 1695年 / 江戸時代

さきほど紹介した慶長小判は金品位が高く、流通量もそこまで多くはないため、一般の商業界にそこまで浸透することがありませんでした。そこで江戸幕府は、慶長小判に銀を混ぜた元禄小判を作成します。慶長小判2枚に銀を加え、3枚の元禄小判を作る、これは幕府の財務責任者である荻原重秀の経済政策が反映されたものでした。

この政策の結果として、当然ながら通貨の流通量は増し、経済発展が進み、日本は元禄文化の黄金期を迎えます。いまでも大変価値の高い小判で50万~100万程で現在も取引されておりこちらもコレクターに大変人気のある小判です。

宝永小判(ほうえいこばん)宝永7年 / 1710年 / 江戸時代

宝永小判とは、江戸時代に鋳造された比較的小型の小判です。1700年の初期である宝永7年頃に発行されました。金品位を落とした元禄小判は、脆く折れやすいという欠点があり、良質であった慶長小判の復帰が望まれていました。

ですが、この時代は金の産出が衰退していたということもあって、充分な量を確保できませんでした。そこで、小判を小さくすることで金の含有率を上げ、慶長小判と同等の金品位となっています。サイズは小さいですが現在でも50万~100万程で取引されております。

正徳小判(しょうとくこばん)1714年 / 正徳4年 / 江戸時代

正徳小判とは、新井白石による通貨吹き替えの際に鋳造された小判です。これは、荻原重秀の政策によって大量に鋳造された低品位の小判を回収し、家康の持っていた理念に沿い、高品位の金貨を鋳造するのが目的でした。

しかし実際には、より高品位である後期の慶長小判の品位に足りず、悪評により、わずか4カ月ほどで改鋳となります。それゆえ正徳小判は希少であり、価値のある小判です。鋳造期間の短さから流通量も少なく、とても希少性が高い小判なので買取相場は100万円以上といわれています。

享保小判(きょうほうこばん)正徳4年 / 1714年 / 江戸時代

享保小判は、正徳小判のあとに鋳造、流通されました。この小判は、約20年以上に渡って鋳造されたという経緯があります。

そのため、今でも大量の享保小判が発見されています。品位の低くなった小判を、高品位の慶長小判と同程度まで高めるという目的を持ち鋳造された小判です。取引価格は状態の良いもので~60万円程となります。

元文小判(げんぶんこばん)元文5年 / 1736年 / 江戸時代

元文小判は8代将軍徳川吉宗の時代に鋳造された小判です。この小判は、70年以上という非常に長い期間に渡って発行され続けました。享保小判の下位互換という立ち位置でもあるためか、金品位も低く流通量もかなり多いためそこまで買取金額はつきません。

しかし製造段階ごとの試験を通過した際に押される二つの印の組み合わせが「大吉、小吉、堺長、馬神、久吉、守神、久長」となっている場合には、縁起物の「七福小判」とされ、価値が高いものとされています。相場としては10万から高い物で50万程となります。

文政小判(ぶんせいこばん)文政2年 / 1819年 / 江戸時代

文政小判とは江戸時代に鋳造された大ぶりの金貨で、背面に草書体で「文」の文字が刻まれているため草文金とも呼ばれています。江戸時代には10種類の小判が鋳造されていますが、この文政小判は金の含有量が最も低い小判です。

しかし、鋳造の際に押される印の組み合わせによっては、縁起物として大変に人気があります。また、流通用と別に献上用の小判も鋳造されており、その価値は通常品の10倍ほどになります。

天保小判(てんぽうこばん)天保8年 / 1837年 / 江戸時代

江戸時代に鋳造された8番目の小判である天保小判は、ローラーを利用した延金作業が行なわれた初めての小判です。鋳造技術が向上したため、より美しい小判が作られるようになりました。

天保小判は、背面に打刻される印の組み合わせによって縁起物としても人気があり、意図的に「大吉」という印が入れられた献上用の小判は、非常に価値の高いものとされています。

安政小判(あんせいこばん)安政6年 / 1859年 / 江戸時代

安政小判とは、日本の開国に伴い、国内にある金の流出を防止する目的で鋳造された、やや小ぶりの小判です。しかしながら、結局のところ、アメリカが自国の金銀比価を日本で通用させたため、大量の安政小判が海外に流出してしまいます。

そのため、安政小判は残存数の少ない、貴重で価値の高い小判となっています。

万延小判(まんえんこばん)万延元年 / 1860年 / 江戸時代

万延小判(まんえんこばん)とは、江戸時代で最後に鋳造された小判であり、安政小判に次いで鋳造された小判です。新小判(しんこばん)あるいは雛小判(ひなこばん)とも呼ばれており、裏面に「大吉」と刻印されていたら献上判になります。

万延小判の価値は高く、買取価格は美品で10万~20万ほどで、献上判は価値が高いものとされています。

小判の発行枚数

・慶長小判 14,727,055両(推定)

・元禄小判 13,936,220両

・宝永小判 11,515,500両

・正徳小判 213,500両

・享保小判 8,280,000両

・元文小判 17,435,711両

・文政小判 11,043,360両

・天保小判 8,120,450両

・安政小判 351,000両

・万延小判 666,700両

※両=1枚

小判の見分け方

小判は高価なものであるため、レプリカ目的の模造品から精巧な偽物まで様々あります。そのため、簡単ではありますが見分け方をご紹介します。

磁石にくっつくか

金は磁石にくっつかないので小判以外でもアクセサリーを見極めるときにも使われます。しかし安易に磁石にくっつかないからといって金であるとは限らないので注意が必要です。特に厚メッキ等になるとくっつかないケースが多いです。

偽物は重さが違う

本物と偽物を比べてみると重さにばらつきがあります。昔は正確な計量機器がない為本物と重さにどうしてもバラつきが出てしまいます。しかしこれも近年ですと精巧に作られた模造品が存在している為重さが同じだからと安易には判断してはいけません。

まとめ

昔に製造された小判は価値を見極めるのが難しいです。小判はしっかりと価値を判別してもらえれば、高額で売ることも可能ですので、ぜひ買取査定無料の「買取大吉」にお任せください。

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