ロンジンのルーツ、オーギュスト・アガシ
ロンジンの歴史は、エルグエル渓谷の小さな村、サンティミエの牧師の息子であるオーギュスト・アガシが、1932年に仲間の時計職人と時計工房を創設したのが始まりです。オーギュスト・アガシはアンリ・ライゲルとフロリアン・モレルとともに「Raiguel Jeune et Cie」というコントワールを興します。当時スイスでは、このコントワール(Comptoir)が時計の組み立てや完成した時計の販売を行う取引所として機能していました。1845年には、Comptoir Raiguelはオーギュスト・アガシが舵取りをおこなうようになり、ニューヨークの商人と最初の代理店契約を結び、米国での販路を確保しました。ロンジンは今日でもアメリカ市場で高い人気を誇りますが、両者の絆はこの時代から続いているのです。
時計生産を先駆的に機械化した、ロンジンの工場
1862年、オーギュスト・アガシの甥であるアーネスト・フランシヨンが、アガシのコントワールに参画します。彼は、生産工程を一本化し、一か所の製造拠点で時計製造を完結させられる工場を構想します。当時のスイスにおける時計製造では、コントワールが別々に組み立てられた部品を集約し、組み立てる「エタブリサージュ」と呼ばれる方法が主流でしたが、アーネスト・フランシヨンが構想する工場が実現すれば、時計製造の生産効率を劇的に向上させることができました。そこで1867年にサンティミエの近くにある「レ ロンジン(“細長い原野”の意)」と呼ばれる区画に工場を設置します。これ以来、ロンジンの工場は変わらずここにあり、そうして“ロンジン”の名はブランド名となります。アーネスト・フランシヨンはエンジニアのジャック・ダヴィッドを責任者に任命し、時計製造の機械化を推進しました。
ロンジンの躍進
19世紀中葉から20世紀にかけて、スイスの時計産業の発展やアメリカとの競合などによって時計業界の競争が激化します。競争を生き抜くため、ロンジンは経済的でありながら精度と堅牢性を備えた時計を製造することを第一の目標に設定しました。9リーニュ(時計業界で用いられる単位で、1リーニュは2.2558mm)の新しいキャリバーやスイスレバー式脱進機の導入、女性がネックレスやブレスレットとして着用するモデルなど、内部から外的デザインまで革新性がもたらされました。そうした努力は結実し、ロンジンは数々の万国博覧会でグランプリを獲得します。
1900年、ロンジン社はジャック・ダヴィッド、バティスト・サヴォエ、ルイ・ガニバンを経営者に迎え、社名は「Fabrique des Longines, Francillon et Cie」となりました。この頃、8リーニュから24リーニュまでの数々のエレガントなキャリバーを設計しました。この頃にデザインされた極薄モデル「レピン」は、その高い技術力はプロからも愛好家からも賞賛されました。1904年頃、従業員の数は800人に増加しました。年間生産量は10年間で3倍以上になり、39,000個から122,000個に達しました。
1915年ロンジンは、当初の4倍の株式資本を持つ公開有限会社に変わりました。“レ ロンジン”に広がる社屋はすでに何度も改築と拡大を繰り返していましたが、この頃になると電気を動力源とするようになりました。福利厚生を先駆的に推進した会社でもあり、創立50周年を記念して創設された基金は、困っている労働者とその家族を支援する目的で設立されました。
長年にわたり競馬や馬術をサポート
また時計業界はクロノグラフ(ストップウォッチ)としてスポーツの世界と密接に関わりを持っていますが、ロンジンの場合、特に競馬などの馬術競技と親密な関係を築いてきました。ロンジンは1878年に馬とジョッキーを彫り込んだクロノグラフを生産し、20世紀初頭には馬術競技を協賛し数々のレースの公式タイムキーパーを務めており、国際競馬統括機関連盟(IFHA)の公式パートナーです。
まとめ
スイスの時計メーカー「ロンジン」の歴史を紹介しました。ロンジンは200年近い歴史をもち、マニュファクチュールとして時計製造を一本化し、均質で高精度の時計を機械生産したパイオニアです。確かな精度にもかかわらず決して法外な価格設定ではなく、コストパフォーマンスにも優れている時計として今日でもウォッチラヴァーから高い支持を得ていますが、創業当初から効率的な製造のため数々の技術革新を成し遂げてきました。20世紀初頭より世界的なシェアを誇ったロンジンは競馬や馬術競技を一早くから支援していた時計メーカーでもあり、両者の親密な関係は今日に至るまでつづいており、ジョッキーなど馬に携わる人からも愛される時計として知られています。