エカテリーナ二世って?
1729~1796年。北ドイツの小領主の娘として誕生。14歳でロシア皇太子ピョートルのお妃候補としてロシアへ。16歳で皇太子妃となり、1761年に夫がピョートル3世となるが、統治能力に欠け、翌年クーデターを起こし、エカテリーナ2世として誕生しました。ロシアの政治改革、文化、教育の振興、疾病対策などに力を尽くし、現在、世界屈指の規模を誇るエルミタージュ美術館のいしずえを創りました。
ロマノフ王朝の財宝が眠るエルミタージュ美術館とエカテリーナ宮殿
エルミタージュ美術館は、アメリカのメトロポリタン美術館、フランスのルーヴル美術館と並んで世界三大美術館の1つです。そのエルミタージュ美術館の基礎をつくったのはエカテリーナ2世で、エルミタージュと呼ぶ建物をつくって、そこに絵画や宝石などを置いたことが始まりとなり、名前もそのまま使われ今日に至っています。
エカテリーナ2世だけが集めたわけではないですが、ロシア革命で、ロマノフ王朝が崩壊したとき、約2万500カラットのダイヤモンド、約4000カラットのエメラルドや約6000カラットの真珠などの宝石があったと言われています。エルミタージュ美術館には、ダイヤモンドの間や黄金の間と呼ばれる部屋があり、多くのダイヤモンドを含む宝石や財宝が展示されています。なお、有名な巨大ダイヤモンドの「オルロフ」は、サンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館ではなくモスクワにあるクレムリンの宝物庫に展示されています。大きさは、約32×35×31ミリでローズカットのダイヤモンドです。
サンクトペテルブルクの郊外の、帝政ロシアの繁栄の象徴とも言うべき世界遺産「エカテリーナ宮殿」には、エカテリーナ2世がこよなく愛した「琥珀の間」と呼ばれる部屋があります。まばゆいほどの黄金色の琥珀(こはく)で覆いつくされ、壮麗な煌めきに満ちた特別な部屋には、彼女の許可なしには入ることができなかったそうです。
オリジナルの琥珀の間は第2次世界大戦中に失われてしまいましたが、24年の月日をかけて2003年に復元し、450㎏もの貴重な琥珀が壁を覆うその部屋の価値は500億円以上とも言われています。
エカテリーナの王冠
エカテリーナ2世の王冠は熟練した職人が作成しており、多くの白い真珠、4936個のダイヤモンドが全面に配されています。その内のダイヤの一つは、ロシアで歴史的価値のある石です。美しいインドパールの数は75個で、豪華な見た目から当時のエカテリーナ2世の絶大な権力が確認できます。
エカテリーナ2世の王冠は、恒久的な「聖遺物」となりました。エカテリーナ2世の息子で次代皇帝のなったパーヴェル1世は、母親を憎んでいたにもかかわらず、王冠を処分してはならぬと宣言しました(それまで代々の皇帝は、処分してきた)。頭の周辺の部分の長さだけ、現皇帝の頭のサイズに合わせて調整することに決まり、この仕事は、最も経験豊かな宝飾細工師にのみ委ねられました。
王冠にはレプリカがある
王冠は決してロシアから持ち出されたことはない、と公式に認められています。1991年からは、モスクワのクレムリンからの持ち出しさえ禁じられました。
持ち出しは、ロシア連邦大統領自らの命令によってのみ可能となり、それも極めて特別な場合のみ認められています(例えば、モスクワにいつか何者かが侵入したような場合)。
2012年、スモレンスクの工房「クリスタル」の60人の職人が、この「皇帝の大王冠」の正確なレプリカを作りました。オリジナルの王冠とは異なり、1億ドルの保険がかけられ、価格がついています。
2015年、10億ルーブル(当時のレートで1500万ドル)の値段でオークションに出されてましたが、買い手は見つからなかったそうです。
まとめ
ロシア帝国の宝飾品は、時代が変わっても人々の心を虜にしています。ダイヤモンドやパールが贅沢に鏤められた王冠は、ニュースにも度々登場します。貴族文化で磨かれた宝飾品には気品があり、現代の人々にも潤いを与えてくれます。
ダイヤモンドをはじめ宝石を愛したエカテリーナ2世ですが、彼女の時代のロシアでは、ダイヤモンドがあることは発見されていませんでした。もし、知っていればダイヤモンドの保有量は、考えられないほどの量になった可能性があります。