エルメスの産みの親 ティエリー・エルメス
もはや知らない人はいないと言っても過言ではない、世界が認めるフランスのラグジュアリーブランドであるエルメスは1800年代の創業当時からエルメス同族経営によって6代に渡り今日までこだわりと伝統を守り続けているのです。
その生みの親であるティエリーエルメスは、1801年、当時フランスの占領下であった現ドイツ西部の都市クレーフェルトに生まれます。ティエリーの父が酒場を営んでいたこともあり、幼いころからティエリーはお客様の馬車の整備や馬の世話をしていたといわれています。馬具の整備に長けていたことが地元では評判であり、戦争や病気によって家族を亡くした後はパリに移り住み馬具屋の見習いとして修業を積みます。
そして1837年に修業を積んだティエリーは独立し、後にエルメスの母体となる小さな馬具店をパリに開くのです。当時、需要の高かったわな、かご、馬車などを専門とし、ハンドメイドによる縫い目の丈夫さを強みとして事業を築いていくのです。
パリの上流階級やヨーロッパの王族、ナポレオン三世などの大富豪も顧客様だったといわれ、評判が良かったティエリーはパリの万国博覧会にて銀メダルやグランプリなど名実ともに人気を博すようになりました。
エルメスの歴史、バーキンの誕生
1878年にティエリーがなくなり、1880年にはティエリーの息子であるシャルル・エミール・エルメスが二代目を継ぎ、工房を移転し、店舗を併設します。こちらが現在のフォーブル・サントノーレ通り24番地にあるエルメスの本店になります。
ここから高級馬具の直接販売を始めるようになり、ヨーロッパ中にその名前が知られるようになるのです。時代の変遷により自動車の普及が始まり、事業の幅を広げざるを得なくなったシャルルはカバンや財布などの製品も作るようになります。1890年ごろには馬具の鞍を入れる鞄『オータクロア』を作成します、これがのちにエルメスの代名詞であり最高傑作とされる『バーキン』の前進の誕生です。
エルメスの事業拡大
世の中の変遷は馬車から自動車の社会に変貌していきます。この社会の変化に対して柔軟に対応し、事業を発展させたのがシャルルの息子であり3代目のエミール・モーリス・エルメスです。馬具で培った革製品の技術を伸ばし一流の革製品会社へ、1918年にはゴルフ用ジャケットの発表します。これがアパレルブランドへの足掛かりとなり、そのほかにもシルク製品や香水・時計なども幅広く手掛けていくことになるのです。
カナダに赴いた際に、軍用車に使われていた「万能とじ具」に魅了され、1923年の発表鞄には世界で初めてファスナー(ジッパー)を取り付けたことで有名であり、このシステムのヨーロッパでの独占権を取得、その後、様々な鞄にこのジッパーが取り付けられることになるのです。
1937年にはブランドの代名詞となるシルクのスカーフ『カレ』を発表します。貴族や大富豪などを相手にしていた最高級のものが、スカーフや香水などの手ごろな価格で買えるという戦略が見事功を奏し、またもや大ヒットするのです。
現在もエルメスのイメージといえばオレンジ色の包装紙ですが、このころから使われているといわれ、戦時中に使えずに余っていたオレンジの紙を使ったところ、反響があり現在もそのまま採用されているようです。
エミール・エルメスは好奇心旺盛であり、珍品や奇品の収集に熱心であり、膨大な数の美術品や書籍を集めており、このコレクションが後の後継者へのインスピレーションの源になり多くの商品へとつながっているようです。
ケリーの誕生
エミール・エルメスの娘婿であったロベール・デュマは1951年に4代目としてエルメスを継ぐこととなります。彼が1935年にデザインし発表した『サック・ア・クロア』は、馬具のサドルバッグを婦人用に改良した台形のハンドバッグですが、約20年後の1956年に転機を迎えることとなるのです。
当時、モナコ公妃であったグレース・ケリーが、パパラッチによって取られた写真にこの鞄を持っている姿が映っており、掲載された写真が反響を呼び、一躍認知度を上げる形となったのです。エルメスはこれに便乗し、モナコ公国の許可を得て愛用してくださっているグレース妃への敬意を表して、サック・ア・クロアから『ケリー』へと改称することとなるのです。
その後も、デュマは『シェーヌ・ダングル』など現在も人気を誇すプレスレッドの発明や、カレの売り上げを軌道に乗せるなど、職人としても経営者としてもエルメスに寄与しました。
幅広い年齢層に愛されるエルメス
1978年に5代目エルメスを継いだのは、ロベール・デュマの息子であるジャン・ルイ・デュマでした。フランスの最高エリート養成校であるフランス国立行政学院で学んだあとに、アメリカに渡り高級百貨店などでバイヤーを経験し、会長就任後には時代のニーズに沿った経営戦略を展開していきます。
これまでのエルメスを見ていくと、順調にエルメスは知名度を伸ばし、発展していっているように見えますが、現在一般にもつイメージとは大きくかけ離れたものがありました。それは、エルメスはどこか古臭いというイメージでした。一流の革職人がこだわり抜いた商品を提供していることに間違いはありませんが、貴族であったり大富豪であったりなど顧客の中心は中高年だったのです。そこにどこか古臭いイメージが定着していたエルメスを刷新するために、ジャンは広告を使ったブランドイメージ戦略を一新することとなるのです。
まずジャンが行ったのが、広告戦略部門のトップにフランソワーズ・アロンを起用します。彼女は今までの広告戦略を覆し、若い女性モデルを使ったインパクトの強い広告を打ち続けることで若者、特に女性に興味関心を持たせることに成功し、ターゲットを女性中心に刷新したのです。
その代表例が、1984年に発表された、イギリスの人気女優ジェーン・バーキンの名をとった「バーキン」になります。当時、人気女性歌手であったジェーン・バーキンとジャンが航空機内で偶然出会ったことをきっかけに、オータクロアを原型にエレガントでボリュームがあり、夜も昼も使えるバッグをデザインしプレゼントしたことで『バーキン』の誕生となるのです。
エルメスというブランド
1980年代に移ると、エルメス以外の様々なブランドが世界規模に拡大していく中で、世界の需要に対して供給を賄うために、効率化が図られました。しかし、エルメスは生産が間に合わなければ販売をストップするという、徹底した品質を守り抜いていました。こういったエルメスのブランドを損なわない姿勢が、よりエルメスを唯一無二の高級ブランドとして確立させていったのではないかと思います。
また2010年には数々のアパレルブランドを買収し、巨大化していたグループLVMH(ルイヴィトンモエヘネシー)からの買収を乗り越えます。2010年ジャンが亡くなったと同時にLVMHから17%の株式を保有しているという発表、それに対してエルメス一族が結束し「H51」という合弁会社を設立、50.2%の株を保有し、買収への断固拒否という姿勢を見せつけるのです。最終的には両社間で和解し、買収は行わないこととなるのですが、この一件を機にエルメス一族はさらに結束し、より一層強固なブランドへと繋がっていく礎になったのではないかと思います。
まとめ
小さな馬具専門店から始まったエルメスですが、世の中に数多くあるブランドとは果たして何が違い、そのブランドを世界に知らしめているのでしょうか。数多くの理由があるとは思いますが、何より第一にその品質・素材へのこだわりではないでしょうか。バッグや財布などの皮革製品が有名ではありますが、レザー1つの仕入れに関しても妥協はせず、ブランドの基準を満たす希少な皮を求めるため、有名ななめし皮業者であっても卸すのに苦戦するといわれております。
また第二にその工房における職人であるとも思います。今日でも、エルメスの工房では、商品製作するうえでの工程を職人一人がすべて担当し、一つ一つ手作業で行われます。また商品すべてに対して、誰がどの工房で製作したのかをしっかりと管理し、完璧なアフターケアによる生産体制を構築しているのです。その他多くのアパレルブランドでは到底考えられないような生産体制ではありますが、これこそがエルメスのブランドへの信頼の証であり、エルメスの価値といえるのではないでしょうか。
エルメスは一般的な市場とはズレており、欲しい人が多くても上客にしか売らず、それでも買いたい人は待つという特異な市場が形成されております。これによりエルメスの製品は、中古でも需要が高いため、リセールバリュー(再販価値)が高く、身に着ける資産と呼ばれることも多々あるそうです。リユース市場においても購入金額より高く取引されることが少ないのは、希少性が高く、世界的に人気があるためです。