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銀座の名前の由来
銀座といえば東京都中央区にある高級ブランドが軒を連ねるショッピング街というイメージがありますが、じつは銀座というのは土地由来の地名ではありません。銀座の名前の由来は江戸時代まで遡ります。
江戸幕府では、貨幣として金貨、銀貨、銅貨(銭)を規定通貨とする、三貨制度と呼ばれる世界でも珍しい方法が採用されていました。それらの貨幣はお金を取り扱う組織である勘定奉行のもとで鋳造が行われていました。
その中で、銀貨の鋳造が行われていた銀貨幣鋳造所は「銀座役所」と呼ばれ、京都の伏見や静岡県の駿河などに設置されていました。その周辺の地は、銀座役所を略して銀座と呼ばれるようになりました。その後、銀座役所が日本橋蛎殻町へと移転し、この時の「銀座」という名前がその地域に定着したことから、1869年の江戸町名改正により正式に銀座が地名となった経緯があります。
「銀座役所」は貨幣を中心に取り扱う重要な組織であったため、そこで働く役人も羽振りが良く、経済的に豊かな人が多かったといわれています。そのため銀座があった周辺地域には、呉服店などを中心に商業的な施設が集中しました。そんな商業の街として多くの人々が行き交っていた名残が、高級ブランドなどの商業施設が点在している今の銀座にも残っているといえます。
「銀座」があるなら「金座」や「銅座」はある?
銀座の地名が銀座役所から定着し、その名が地名になったと上述しました。では金座や銅座はあるのでしょうか。
金座、銅座ともに現在でも実在している
金座、銅座は銀座役所と同様に江戸時代のお金や金属を取り扱う機関として江戸時代につくられました。駿府にあった金座は、現在でも静岡市葵区金座町と名前が残っています。また、長崎にあった銅座は長崎市銅座町として地名に残っています。
似たような組織もいろいろあった
江戸時代には鉄座、真鍮座、銭座なども存在しており、鉄座は鉄を、真鍮は合金のように、その組織が扱っている物の名前を由来としていました。特に銭座は江戸時代の最小通貨だった文を扱う組織だったため、あちこちに存在していたといわれています。
金座の歴史
金座の役割
金座は当初「小判座」と呼ばれ、金貨を製造・検定して発行することが役割でした。金貨の製造は金の精錬から始まり、鋳造などの工程を経て小判の形ができあがります。その後、御金改役が不良品がないかを検品し、合格した金貨に極印を刻む手順で完成します。御金改役は江戸時代に徳川家康が呼び寄せた金匠の後藤庄三郎光次が務め、その子孫も世襲制で受け継ぎました。他の職人や事務仕事を行う者も幕府の役人ではなく町人であり、不正を防ぐために複数名の立ち会いと監視体制が取られました。
金座の跡地はどうなったか
金座があった周辺は日本橋本石町いう地名になっていて、日本銀行本店が建っています。また、駿府にあった金座は、今も静岡市葵区金座町と名前が残っています。こちらには日本銀行の静岡支店があります。
銅座の歴史
銅座は同じく江戸時代に、銅をたくさん作ることや販売の管理を目的に置かれた組織です。当時、幕府は長崎で一部の国と貿易をしていました。銅は貴重な輸出品の一つだったので、銅座で流通の監視のため、目を光らせたのです。最初は大坂に設けられ、後に江戸と長崎に出張所ができました。今も長崎市銅座町として地名に残っています。
現在の銀座はこんな街
現在の銀座は、日本を代表する繁華街の一つであり、東京の中心部に位置し、多くの人々に親しまれています。高層ビルが立ち並ぶ景観と、歴史的な建築物が調和した美しい街並みが特徴的です。高級ブランド店や一流レストラン、ショールームなどが軒を連ね、最新のトレンドを発信し続けています。日本の観光客のみでなく、多くの外国人観光客や地元の方々で常に賑わっており、活気に溢れる街といえます。
週末やイベント時には、歩行者天国として車両の通行が制限され、多くの人々が歩行者としてゆったりと街を楽しむことができます。ショッピングやグルメ、アートやカルチャーイベントなど、銀座は多彩な魅力を持つエリアとして、幅広い年齢層の人々に訪れられています。また、銀座には古くからの歴史を感じさせる建築物も点在しています。明治時代から残る洋風の建物や、戦前の建築、戦後の再建された建物など、それぞれが銀座の歴史を物語っています。
まとめ
今回は銀座を中心に、それに関する歴史などについてご紹介しました。きらびやかなビルに目がいきがちな銀座ですが、ひっそりと佇む建物には歴史と風格を感じます。建築の知識がない方でも、細かい意匠や重厚さにはきっと圧倒されるはず。銀座の中心エリアから歩いて見に行ける場所も多いので、ショッピングしながら散策するのもおもしろいかもしれません。