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金山で有名な佐渡島は罪人の流刑地だった?

金山で有名な佐渡島は罪人の流刑地だった?

佐渡島といえば、江戸時代の台所事情を支えた佐渡金山が有名です。時代劇で罪人を島流しにする流刑地として強制労働をさせられている場面を見た事がある方も多いと思います。今回はそんな佐渡島について、歴史を紐解きながらご紹介していきます。

流刑地のイメージ

流刑地と聞くと犯罪者が強制的に送られる「厳しい環境」「孤立した場所」「過酷な生活条件」が連想され、そのような環境の中で、流刑者に対して労役が課せられ、資源の採掘、農耕、建設など、過酷な労働に従事させられる。こんなイメージをもっている方が多いと思います。

実際に流刑地の役割的にはこのような事が世界各地で行われていたのは事実です。しかし、この佐渡島については少し状況が違います。

佐渡島の流刑地としての歴史

佐渡島の流刑地としての歴史は奈良時代まで遡ります。この時代の佐渡島は独立した地域として認識されており、本土とは離れた立地から、「日本の敵(朝廷の敵)」と見なされた人の流刑地として指定されました。そのため、よくあるイメージのような犯罪者が流されるよりも政争に敗れた貴族や知識人が流される事が多かったようです。その中でも特に有名な人物をご紹介します。

穂積朝臣老(ほづみあそみおう)

最も古い記録の1つには、皇室批判をした万葉歌人「穂積朝臣老」が、722年から740年までの18年間をこの島で暮らしたと書かれてあります。これが記録に残っている流刑で最も古いものになります。

順徳天皇(じゅんとくてんのう)

第84代の天皇に即位された順徳天皇は、父である後鳥羽上皇による鎌倉幕府の打倒計画に参画し、承久の乱を引き起こしました。しかし、鎌倉幕府の執権であった北条義時を中心とする幕府軍によって鎮圧され、倒幕は失敗に終わりました。

その後、乱の首謀者の一人として1221年に佐渡に配流となりました。最終的に都へ帰ることは叶わず、22年間の在島後、46歳で崩御されました。行在所であった黒木御所や火葬塚である真野御陵など、島には多くの遺跡や伝説が残されています。

日蓮聖人(にちれんしょうにん)

日蓮宗の宗祖である日蓮聖人は、日本で地震や飢饉、疫病などの災害が相次いだことから「立正安国論」という1冊の書を、鎌倉幕府当時の最高権力者であった北条時頼に提出しました。これらの災害は、幕府や民衆が邪教を信仰することにあるとし、法華経を信じなければ災いが起こると説きました。鎌倉幕府や他の宗教を批判したとして時頼の命で1271年に佐渡に流されました。

日蓮上人は塚原の三昧堂という小堂に配所され、翌年の4月に市野沢に移されるまで半年間を過ごしました。この地で他宗の僧たちと「塚原問答」を戦わせ、「開目抄」を著し、市野沢に移されてからは「観心本尊抄」を著し、初めて日蓮宗の本尊とされる法華曼荼羅を顕されたといわれています。在島3年と短い期間でしたが、島内には日蓮聖人ゆかりの遺跡が数多く残されています。

世阿弥(ぜあみ)

室町幕府の3代将軍足利義満の寵愛を受け、能楽を大成させた世阿弥は、6代将軍足利義教の怒りにふれ、1434年に佐渡に流されました。島での時間を有意義に過ごすべく、世阿弥は舞台演劇である「能」を完成させようとします。そして世阿弥は日本古来の伝統芸能の父と称されるようになりました。現在でも、佐渡島は日本における能の聖地とされていて、祭りや祝い事の際に、島の至る所で能が行われています。

このようにこの地に流刑にされるのは貴族や知識人が多く、生活基盤もある程度保証されていたため、時折罪人が流されてくることを除いては、佐渡の暮らしは比較的静かで穏やかなものだったといわれています。

世界有数規模の金山

佐渡島の状況が一変したのは、江戸時代のことです。この地にはどうやら大量の金や銀といった資源が埋まっているらしいということがわかると、江戸幕府の初代将軍である徳川家康が佐渡島を直轄地に組み込みました。そして、1601年から当時としては類をみない大規模な採掘作業を開始しました。

結果的に佐渡の金採掘産業は徳川幕府に莫大な富を生みだし、経済を潤しました。最盛期には年間に金400kg、銀40tが採掘されていました。佐渡で採掘される銀の量はかつて、全世界の産出量の約2割を占めていたといわれています。

佐渡島は流刑地でありながらしっかりと統制されていた

金や銀がこれだけ採掘されるとなると、佐渡島は大きな利益を生むいわゆるゴールドラッシュのような状態が起きます。その特需に乗ろうと、技師や鉱夫はもちろん、その住処やインフラ等を整備するための大工や技術者などが日本全国から集まってきました。

急成長するこの産業を支えるべく、貿易商人や商人、漁師や政府の役人といった人までも、この流れが追随し、それまで離れた孤島に過ぎなかったこの島は慌ただしい経済の中心地となりました。また、幕府の直轄地だったこともあり、統制もとれており、イメージされる流刑地とは様相が大きく異なっていたといえます。

鉱山の島から観光の島へ

このような賑わいを見せていた佐渡島ですが、江戸幕府末期あたりから資源の枯渇が問題となっていきました。その後。1952年までにはほとんどの鉱山は廃坑となり、全鉱山労働者のうち約1割が島に残る状態となりました。1989年に最後の鉱山が廃坑となり、佐渡島金山の歴史は幕を降ろしました。ここを転機に、鉱山から観光業という未来へ向けた転換が始まりました。

まとめ

今回は日本の流刑地でもあった佐渡島についてご紹介しました。佐渡島は流刑地でしたが、ありがちなイメージと異なり、比較的安定していたことが伝わると思います。そんな佐渡島ですが、現在は世界遺産への登録という目標に向かって、計画を進めています。

2022年1月28日、当時の総理大臣・岸田文雄が佐渡の金山をユネスコ世界遺産へ推薦するという計画を発表しました。登録は2024年を目標にしており、今後世界遺産として佐渡島の歴史が世界に知られるようになるかもしれません。歴史的にも様々な魅力のある佐渡島に一度は訪れてみるのもいいかもしれませんね。

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