足利義満について
足利義満は室町幕府の初代征夷大将軍である足利尊氏の孫にあたり、室町幕府第3代征夷大将軍として様々な功績を残した偉人です。
幼少期から征夷大将軍に任命される
1367年に父親である足利義詮が亡くなると、足利義満は家督を継いで1368年に11歳という若さで第3代征夷大将軍となりました。家臣である細川頼之に支えられながら政務をこなしていきました。
その後、足利義満は武家社会だけでなく、公家社会においても権威を高めていき、逆らう者は武家も公家も関係なく失脚させ、貴族の地位を奪う勢いながら幕府の権力を強めていったのです。また、1378年には、京都の北小路室町に邸宅を築き、政治の中心地としました。これ以降、足利義満や幕府は、室町幕府の由来となる「室町殿」と呼ばれるようになり、「花の御所」として栄華を極めていきました。
南朝・北朝の統一
この時代の日本は南朝と北朝の形で政権争いをしており、足利義満は北朝側に属していました。足利義満は1381年に内大臣に就任し、祖父である足利尊氏と父である足利義詮を越える官位となりました。その後、1383年には准三后の称号を授かり、武家と公家の双方視点での頂点に登り詰めました。1392年には、南朝勢力が衰退したことを機に南朝方との和平交渉を進め、抗争を終結させて南北朝合一を果たしました。58年にも及んだ南北朝の政権争いに終止符が打たれた瞬間でした。
隠居後の義満
南北朝合一を成し遂げた足利義満は1395年に息子である足利義持に家督を譲り、出家します。その一方で幕府での実権をもち続け、絶大な権威を維持しました。その後、この権威を利用し日明貿易を開始し、莫大な利益を得ることで財力の面でも他の比較にならない力をもちました。このあたりで京都の北山に北山殿よばれる新たな邸宅を築いており、これが現在世界遺産にもなっているのちの金閣寺となります。
金閣寺について
金閣寺は正式名称ではない?
金閣寺というと池の畔に建つ金色に輝く建物のイメージがあるかと思います。じつは、あの建物が金閣寺なのではなく鹿苑寺の中にある、金閣とよばれる舎利殿が金閣寺として一般的にいわれているのです。鹿苑寺という名称は、足利義満の没後に義光の法号である鹿苑院が由来となっています。
舎利殿に込められた意味
舎利殿といえば金色に輝く建物というイメージがあるかと思いますが、じつは金箔の貼られていない部分があるのはご存じでしょうか。舎利殿は3階建ての建物ですが、金箔が貼られているのは2階と3階部分のみです。これには武士である義満の想いが表されているといわれています。
舎利殿の内部は以下のような作りとなっています。
・1階 公家が住んでいた建物に使われていた寝殿造
・2階 武士が住んでいた建物に使われていた武家造
・3階 明をモチーフにした禅宗様
これは1階は公家を意識した建築、2階は武士を意識した建築、そして最上階は中国の明をモチーフにした造りとなっており、これは武士である私(足利義満)は貴族よりも上の存在であり、私よりも上には明(中国)しかいないという意味が込められています。つまり、日本では自分が一番の権力をもっているという事を金閣という豪華な建造物で誇示しているのです。
金閣に使われている金の量
現在の金閣は昭和の大修復とよばれている大規模な修繕工事後の姿です。この際に使われた金箔は通常の金箔よりも5倍程厚い物が使われ、それを2層にするという徹底ぶりで合計約20㎏にも及ぶ金箔が使われました。そのため、金閣は現在でも艶やかな金色の輝きを保ち、その美しい姿を残しています。
まとめ
今回は金閣寺(鹿苑寺)の舎利殿と足利義満についてご紹介しました。現在は観光名所としての人気の高い金閣寺、実際に見ると写真や映像で見るよりも輝きが美しくみえると思います。そんな金閣寺をまだ見ていない方は一度見てみてもいいかもしれませんね。