目次
埋蔵金伝説その1「東京・銀座 小松ストアー埋蔵金」
昭和31年(1956)に、大規模な本館改築工事を行っていた小松ストアーの工事現場から、慶長小判と享保小判が合計208枚、さらに一分金60枚が発見され、「銀座のど真ん中から小判が!」ということで一躍話題となりました。小松ストアーは速やかに所有権を放棄。国の「埋蔵文化財」として上野の東京国立博物館に寄贈し、現在も保管されています。
埋蔵金伝説その2「山形・白鷹町 最上川の小判」
昭和36年(1961)に、最上川の川底から小判23枚、二分金9枚、二朱銀358枚の計72両1分が発見されました。いずれも江戸時代に発行されたもので、落とし主は商人からの依頼で金80両を届ける最中に、発見場所付近で溺れ死んだ飛脚ではないかと言われています。なお、小判は発見場所の白鷹町が文化財に指定し一括保管していますが、飛脚が落とした総額が80両という説が正しければ、川底にはまだ残りの7両3分が埋もれているかも知れません。
埋蔵金伝説その3「東京・新川 鹿島清兵衛の埋蔵金」
昭和38年(1963)に、日清製油本社ビルの改築工事現場から、江戸時代の天保小判1900枚、天保二朱金約78000枚が発見されました。当時の時価で6000万円、現在なら10億になるのではと言われています。その後の調べによると、江戸時代の半ばから、200年以上にもわたって酒問屋を営んでいた鹿島屋の先祖、9代目鹿島清兵衛が埋めたものであると判明され、埋蔵金はその子孫に返還されました。
埋蔵金伝説その4「山梨・勝沼町 観光ブドウ園の甲州金」
昭和46年(1971)に、観光ブドウ園で小判型の蛭藻(ひるも)金2枚と甲州金18個、さらに中国から輸入した渡米銭約5000枚が発見されました。18個の甲州金は重量にバラつきがあったり、16世紀以降の甲州金にあるはずの刻印がなかったりしたことから、軍用金に使われていたものではないかと推測されています。なおお宝は、発見から40年経った2011年に山梨県立博物館が1億円で買い取り、2013年には特別展として一般公開されています。
埋蔵金伝説その5「富山・小矢部市 明治金貨」
平成14年(2002)、豪農の屋敷跡から小判12枚、二分金686枚、一分銀404枚、二朱金92枚、明治初期の10円金貨46枚が発見されました。合わせて1295枚で、発見当時の時価で3900万円もの価値があると言われています。当初は土地の所有者である国の手に渡る予定でしたが、金貨発見の2年前までその土地を所有していた人が、「先祖が埋めたものに違いない」と名乗りを上げました。
そして金貨に刻まれた明治6年の年号と古地図によって、名乗り出た土地所有者の蔵が当時確かにその場所にあったと証明され、金貨は元の土地所有者の手に引き渡されました。
埋蔵金伝説その6「埼玉・長瀞町 光明寺の小判」
同じく平成14年(2002)、光明寺で排水管の埋設工事が行われた際に、境内の地下から瓶(かめ)に入った小判38枚が発見されました。小判は縦6センチ、横3センチ、重さは13グラムで、こびりついた土を落とすと黄金色に輝き、表面には「壱両」らしい刻印があったとのことです。住職は「昔の住職が後継者のために埋めたのだろう」と述べていますが、詳細は不明のままです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。信憑性が高い日本の埋蔵金伝説は、他にも「明智光秀の護法救民の宝」「毛利家の埋蔵銀」「旧日本軍の隠匿財宝」などいくつかあるようです。
ちなみに埋蔵金を発見した場合は、遺失物法の適用を受けることになります。発見者は発見から7日以内に警察に届け出る必要があり、それをしないまま懐に収めてしまうと遺失物等横領の罪に問われることになりますので、くれぐれもご注意下さい。