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漢委奴国王 金印
漢委奴国王(かんのわのなのこくおう) 金印は江戸時代、1784年に福岡博多湾沖にある志賀島(しかのしま)で発見されます。これは田んぼで農作業をしていた農夫が偶然発見したといわれています。その後、福岡藩の藩校(各藩が藩士育成のために設置した学校)の校長的立場にあった学者、亀井南冥(かめいなんめい)によって、中国の後漢時代の歴史を記した「後漢書」に記載されている金印ではないかという説が提唱されました。それは起源57年、委奴国王が使者を後漢に遣わしたことを受け時の皇帝であった光武帝が印綬を授けたという記述でした。この“倭”とは、当時の中国による日本の呼称であり、“奴国”は倭にあった「奴」という数ある国の一つであり、当時、後漢の皇帝に認められることで奴国王として権力が強まることを目論んだ外交であり、起源1世紀、弥生時代にすでに、中国との外交が行われていた史実を裏付けるものとして、歴史的意義のある資料となりうるものでした。
偽物説
しかし、金印発見以降、幾度となく金印は偽物ではないかという説が浮上し、本物説とぶつかり合ってきました。しかし、研究の進歩によってそれぞれの偽物説は否定され、現在ではこの委奴国王の金印本物であるという認識に至っています。
作り方が異なる
これは委奴国王の金印は、当時の中国の他の金印と彫り方が異なるという論拠です。委奴国王印が「さらい彫」とよばれる彫り方で文字が彫られているのに対し、同時代の別の金印は「線彫り」と呼ばれるより高度な技術で彫り上げられているという違いから、委奴国王の金印は偽物ではないかと推測されるものです。
鈕(ちゅう)の形状が他のものと異なる
鈕(ちゅう)とは印鑑のつまみにあたる部分です。委奴国王の金印は、とぐろを巻いて後ろを振り向く蛇をかたどった「蛇鈕(じゃちゅう)」です。無数のうろこまで彫られた手の込んだデザインです。しかしこの蛇を鈕とした金印はほかに見つからなかったため、この時代のデザインではないとして偽物説の根拠となってきました。しかし1957年、中国雲南省の遺跡から蛇鈕の金印が発見され、この偽物説も覆されました。
亀井南冥の地位向上を目論んだでっち上げ?
金印を鑑定した亀井南冥(かめいなんめい)は藩校の校長に就任したばかりで、自らの学識を知らしめるために金印発掘をでっち上げたとする推察があります。江戸時代の中国史研究はかなり進んでいて、技術的にも十分贋作が作れると考える学者が唱えた説です。しかし、その後の研究で前漢・後漢頃の文字の発達に対する研究は当時の中国でも未開拓の領域であったので、江戸の学者が知りえたはずがないと否定されました。
発見地点の付近では、奴国に関する遺構が一切見つかっていない
これは現在も解消されていない大きな謎の一つです。委奴国王の金印が見つかった志賀島周辺では、金印以外に弥生時代の奴国に関連する遺跡や出土品はなく、田んぼから出てきたという突拍子のなさから地理的な因縁が見いだせないことから金印は偽物ではないかとする説です。現在もなぜ志賀島の田んぼで見つかったのかという決定的な歴史的根拠はなく、王侯貴族の墓であった、隠されていた、神社や儀式を行う場で、神器としての性格があったなど様々な推論が展開されています。
発見時の記録にあいまいな点が多い
上記の説に通じるものですが、発見時の情報が少なく十分な検証ができないことから金印が偽物ではないかとする説です。
まとめ
江戸時代に発見されて以来この小さな金印は多くの謎に包まれていたことにより、常に学者の関心の的になってきました。謎が多いゆえ様々な偽物説が浮上しましたが、長年の研究の成果によってそれらは否定され今日では弥生時代の我が国と中国の外交の証として国宝に指定されています。