はじめに
戦後日本はまず、生産設備など供給能力の圧倒的な不足に直面します。インフレは需要>供給で起こるものです。供給能力の圧倒的な不足は、行き過ぎたインフレを招きます。では、戦中はどうしていたか?統制経済や配給で、需要を押さえつけていました。
圧倒的に不足した供給力から発生したインフレを、当時の政府は預金封鎖や新円切り換えによって通貨流通量を減らし、抑制しようとしました。つまり金融引き締めです。
しかし、金融引き締めをしてしまうと、復興需要に対応できません。戦後、特に復興需要で重視されたのが鉄鋼と石炭でした。傾斜生産方式と言います。石炭と鉄鋼への融資を絞ると、生産力――つまり供給能力の上昇――が鈍ってしまう。
しかし融資を拡大すると、インフレが止まらない。戦後日本は膨大な復興需要を抱えて、物価の安定か復興需要か? という選択を迫られていました。
戦後のインフレ率とドッジラインによるデフレ
戦後日本のインフレ率は1945年の物価水準を基準にして、1949年は70倍の物価になりました。1947年のインフレ率は125%――物価がこの年だけで2.25倍――と、極めて高い数字を記録しています。1949年にデトロイト銀行の頭取であるジョゼフ・ドッジが、日本で超均衡財政を立案し実行します。
この超均衡財政を、ドッジラインと言います。ドッジラインによって物価は安定したものの、あまりの緊縮財政で逆にデフレになってしまいます。多くの企業が倒産し、失業者が激増しました。物価が安定しながら、倒産や失業が増加するデフレ状態を、当時は安定恐慌と呼んだそうです。
戦後ハイパー・インフレと中央銀行を著した伊藤正直氏によると、高インフレを抑制したと一般的に評価されるドッジラインには、異なる評価もあるようです。つまり、1949年時点ですでに日本は供給能力がかなり上昇していたので、何もしなくてもインフレが抑制できたという批判です。この批判はドッジラインで、デフレと安定恐慌に入ったことを見ても妥当でしょう。
戦後のインフレの原因をわかりやすく解説
戦後日本の高インフレの原因は、著しく毀損された供給能力と膨大な復興需要が原因です。一般的に言われている、積み重なった国債が原因ではありません。
「国債が積み重なってハイパーインフレが起こる」と言われる構造は、原因が「通貨の信用不安」に集約されます。例えば「日本円が信用できないから、ドルやユーロが国内に流通する」というような状態が、通貨の信用不安です。
通貨の信用不安が生じた状態では、通貨流通量を減らしたところで意味がありません。通貨そのものを信用してないのですから、当然でしょう。しかし戦後日本は、そうはなりませんでした。
なぜなら戦後日本の高インフレは、膨大な復興需要によって引き起こされた「デマンドプルインフレ」だったからです。ドッジラインで緊縮財政をした途端にインフレが収束して、倒産や失業率の増加が認められたのがその証拠です。
戦後のインフレはハイパーインフレだったのか?
しばしば戦後日本のインフレは、ハイパーインフレだったと言われます。半分は正解で、半分は間違いです。なぜならハイパーインフレの定義は2つあるからです。1956年にハイパーインフレを定義したのは、フィリップ・ケーガンという経済学者です。ケーガンが定義したハイパーインフレは、月間で50%以上のインフレ率というものでした。これは年間で約13000%、物価でおよそ130倍のインフレ率です。
もう1つの定義は、国際会計基準です。国際会計基準では3年間の累計で100%の物価上昇率を、ハイパーインフレの定義としています。3年間で累計100%のインフレ率を、1年間で平均すると約26%です。英語のハイパー(Hyper)には「超越した」との意味があります。「スーパーインフレ」ではなく「ハイパーインフレ」なのは「もうこれ、インフレを超越しとるやんけ!インフレじゃない何かやで!」というわけです。
年率26%のインフレ率は高くはあるものの、インフレというイメージの枠内です。超越はしていません。従ってケーガンの「月間50%、年率13000%のインフレ」が、ハイパーインフレの定義と考えてよいでしょう。とすれば戦後日本は「かなり高いインフレ率ではあったけれども、ハイパーインフレではなかった」と言えます。
まとめ
戦後のインフレについて、経緯や構造、そして原因をわかりやすく解説できましたでしょうか。いままで戦後のインフレを、国債の乱発が原因と思っていた人には衝撃的だったかもしれません。しかし、じっくりと事実をつなぎ合わせてみると、国債発行の乱発が原因だったとは言いがたいのです。
それ以上に戦後復興の膨大な需要があり、敗戦で供給能力が毀損されていたという要因が大きいのは、どう見ても自明です。