初めての日本金貨
日本の金貨の歴史を語る上で、欠かせないことがあります。それは金貨はいつなぜ誕生したのかがポイントになります。
日本で金貨が初めて作られたのは、760年(天平宝字4年)ごろのこと。「開基勝宝(かいきしょうほう)」という名前の金貨で、これまでに32枚が出土しています。もちろん非常に価値が高いもので、一般に出回ることはありません。
すでに発掘された「開基勝宝」は、国の重要文化財に指定されており、皇室や東京国立博物館にて収蔵されています。
日本の金貨のルーツとして、非常に人気が高いため、レプリカの金貨なども非常に注目されています。日本における紙幣の誕生は、戦国時代に伊勢国で発行された山田羽書(やまだはがき)です。
その後、江戸時代中期から、貨幣の不足などによって各藩が藩札と呼ばれる紙幣を発行しました。
藩札には、金札、銀札、銭札などがあり、特に銀札が多く発行され、明治時代になるまで様々な藩札が発行され続けました。
日本で初めて作った人物
日本で初めて通貨を作ったのは武田信玄になります。日本では通貨が作られたことを貨幣制度といいます。通貨は戦国時代に流通し、信玄が治めた甲斐国というところで取引されていました。
長期間にわたり発行されており、信玄がいなくなった江戸の時代でも、鋳造されていたと言われています。
600年間通貨は作られなかった?
皇朝十二銭以降、約600年もの間、日本国内での統一貨幣の鋳造は行なわれていませんでした。その代わりとして中国から輸入した「渡来銭(とらいせん)」と呼ばれる銅銭が、平安時代の末期から江戸時代前期まで、日本国内で広く使われていました。
中でも明の永楽帝の時代に造られた「永楽通宝(永楽銭)」が室町時代の中期に大量に輸入されました。この渡来銭を中国から買うために、日本で産出された大量の「金」が中国に向けて輸出されていました。ところが戦国時代に状況が変わり、大名は戦いに勝利するために軍資金を準備する必要があったのです。
そこで金山や銀山を開発し、貨幣の鋳造を進めていきました。その第一弾が信玄の「甲州金」だったのです。600年ぶりに貨幣を復活させるとは、やはり信玄は今なお語り継がれる英雄であることがうかがえます。
小判の価値と種類
次は、大判よりも流通量が多かった小判ですが。大判よりも身近な金貨といえます。小判の特徴は、天正時代から江戸時代にかけて、日本国内で使われていた貨幣の一種です。大判と同じように、金の塊を叩いたり延ばしたりすることで作られていますが、大判よりも小さいという特徴があります。
小判にも様々な種類があり、駿河墨書小判(するがすみがきこばん)、武蔵墨書小判(むさしすみがきこばん)、慶長小判、元禄小判(げんろくこばん)、宝永小判(ほうえいこばん)とたくさんの種類があります。
小判は大判よりも流通数が多いため、意外なところから発見されるケースも少なくありません。中でもコレクター人気が高いのが慶長小判です。慶長小判は、慶長6年(1601円)に江戸幕府が発行した小判の一種として知られています。通常の小判よりも金保有量が多く、サイズも大きいのが特徴です。
慶長小判は、表面に刻まれた「茣蓙目(ござめ)」から鋳造時期を把握できます。慶長初期の茣蓙目(ござめ)は線が荒く、後期に鋳造されたものは線が細い特徴があります。
これらは7:3の割合で現存が確認されており、茣蓙目(ござめ)の線が細い後期ものほど希少価値が高くなっています。いずれも100万円以上の値で取引される大変貴重な品です。
紙幣と政府紙幣
日本における紙幣の誕生は、戦国時代に伊勢国で発行された山田羽書(やまだはがき)です。その後、江戸時代中期から、貨幣の不足などによって各藩が藩札と呼ばれる紙幣を発行しました。藩札には、金札、銀札、銭札などがあり、特に銀札が多く発行されました。
明治時代になるまで様々な藩札が発行され続けています。明治政府は、貨幣の統一を目指して「新貨条例」を制定しました。新貨幣は、10進法を採用し、単位も「両」から「円」に改めました。
1872年(明治5年)には、新紙幣となる明治通宝を発行しましたが、この偽札が多く使われたため、1881年(明治14年)にデザインを一新した改造紙幣を発行しました。これが、わが国最初の肖像画入りの「政府紙幣」です。
まとめ
戦国時代では、軍資金を集めるために自分たちで金貨を作成しました。金貨には作った人の色を感じられます。それぞれの金貨は情報が残されています。この記事をもとに、歴史に興味が出た方はチェックしてみて下さい。