Goro'sのレガシーに迫る
Goro'sは、世界中のカルト的なファンを獲得しています。Goro'sの原宿店には、手作りのジュエリーやレザーグッズを買い求める熱心なファンが毎日列をなしています。1972年の創業以来、このブランドの正規店はこの1店舗のみで、ブランドマーケティングやソーシャルメディアのアカウントはありません。Goro'sのスタッフは、商品の品質と独自性を維持するために、売上拡大や小売店の拡大を犠牲にすることを選択し、商品が購買者に合わないと感じた場合、販売を拒否することで知られています。
このブランド哲学は、創業者である故・高橋吾郎から受け継がれているものです。吾郎氏の人生とクラフトマンシップへの情熱がそのまま反映されたGoro'sの製品は、デザイナーがノースダコタとサウスダコタのネイティブアメリカン、「ラコタ族」と過ごした時間が大きなインスピレーションとなっています。個人的な経験、何世紀にもわたる神聖な伝統、そして熟練した職人技がミックスされたGoro'sは、まさに唯一無二の存在なのです。
高橋吾郎という人物について
Goro'sというブランドを理解するには、高橋吾郎という人物を理解する必要があります。1939年、吾郎氏は6人兄弟の末っ子として東京に生まれました。高校時代には革の彫刻を学び、早くからキャリアをスタートさせます。サマーキャンプで出会った駐留アメリカ兵から、夏休みの間、革細工の技術を教わりました。そして、米兵は駐留期間終了後、16歳の高橋に革細工の道具一式をプレゼントし、吾郎氏はさらに革加工技術の研鑽に一層磨きをかけます。
吾郎氏は、このアメリカ人に感銘を受け、さらに革細工の腕を磨くために渡米することになります。吾郎氏は、アメリカ各地のネイティブ・アメリカンのコミュニティで革細工を学び、その過程で銀の彫金にも興味を持ち始めました。そして、旅を通じて先住民の文化や生活に魅了されていったのです。特にラコタ族とは親交を深め、ラコタ族以外で初めて「サン・ダンス」の儀式に参加しました。吾郎氏はやがて、東の鳥である鷲と、メディスン・ホイールの東の色である黄色から、「イエロー・イーグル」という称号を授かりました。ラコタ族との交流は、のちのGoro'sの礎となるものでした。
帰国後、吾郎氏は日本国内で初めて、ネイティブアメリカンスタイルの銀細工師と認められます。アメリカから輸入したシルバージュエリーの需要が高まっていることを知った吾郎氏は、すぐに自分の作品を販売するようになりました。1972年、東京の表参道に店を構え、現在の原宿店に至ります。当初その存在は、口コミで広がっていきました。Goro'sはマンツーマンの対応を重視し、スタッフが顧客のスタイルと気質に合うと感じたものだけを販売した。そのデザインは、木村拓哉氏をはじめとする日本の有名人の間でも評判になりました。木村拓哉氏はGoro'sのジュエリーを高く評価しており、特にイーグルのペンダントは「イーグルを身につけると自信と勇気が湧いてくる...ちょっとしたお守りのようなものです」と語っています。
吾郎氏は、完璧主義者で、常に自分の技術を高めようとしていました。「自分の作品に満足することなく、次の作品をより良いものにしようと努力し、いつか満足のいく作品に出会えたら、それが吾郎の終わりです。」と言っていたそうです。
2013年11月25日、高橋吾郎は多くの人に惜しまれつつこの世を去ります。高橋吾郎の遺志を継ぎ、家族で経営されるGoro'sは、高橋吾郎の死後も変わることなく続いています。
製品について
Goro'sは主にアクセサリーブランドで、ベルト、ネックレス、ブレスレット、バッグ、メダルなどでよく知られています。素材は金、ターコイズ、革、ビーズなどですが、特に銀を使ったものが有名です。その中でもイーグル、フェザー、ホイール、太陽メタルなど様々なモチーフが存在します。特にフェザーは定番中の定番といってもよく、ファーストゴローズにもお勧めです。吾郎氏は、「銀の作品は何千年も存在し続けることができるので、自分が亡くなっても作品が世の中に残ることをとても誇りに思っています」と、銀の魅力を語っています。
最後に
原宿で40年以上の歴史を持つGoro'sは、長い行列と熱狂的なファンを生み出し続けています。原宿の街が変わり、さまざまな流行が生まれたり消えたりしても、Goro'sのスタイルは一貫して変わりません。吾郎氏は、顧客を増やすには、余計なものでなく、手づくりの商品であることを理解していました。吾郎氏は、「宣伝はしない、ほんの少しの手仕事」と、Goro'sの魅力を言い表したことがあります。吾郎氏の遺志は、彼が創業した店とその商品を通じて、今も受け継がれているのです。