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ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットの価値・価格

ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットの価値・価格

ブレゲの創始者アブラアン・ルイ・ブレゲは時計界のレオナルド・ダ・ヴィンチと称される天才技師でした。トゥールビヨンや永久カレンダー、自動巻き機構などは彼の功績なしには誕生しなかったといわれています。偉大な創設者へのリスペクトはブレゲ社の作る時計に表れており、初代ブレゲの好んだギョーシエ彫りやブレゲ数字などが現在も使われています。そのブレゲの歴史の中で最も高価とされるのが、マリー・アントワネットがオーダーした懐中時計の「NO.160」です。
ブレゲは宮廷時計師として活躍しており、当時の可能な限りの技術を駆使し、できるだけゴールドを使って再供給の時計を作るよう言い渡されました。時間と費用の制約は一切課されなかったため、実際に完成したのはマリー・アントワネットの死後から34年経った後だったのです。注文を受けてから完成まで44年かかり、完成の4年前には創立者のブレゲもこの世を去っています。1983年にエルサレムの美術館から盗まれて以降は発見されず、2008年に復刻版である「No.1160」が発表されました。推定価格は、なんと日本円で50億円もの価値があると報道されたのです。「No.1160」はマリー・アントワネットの名を冠している伝説の時計です。

ブレゲとマリー・アントワネット

ブレゲと聞き、すぐに高級腕時計ブランドだと連想できない人も、逆にコレクション名を挙げられる時計愛好家もいるかもしれません。確かに、知名度でみればそれ以上に認知されているブランドはいくつもあると思います。しかし、ブレゲは時計の発展に多大なる功績を残し、時計史にその名を残すとても重要なブランドです。その時計は芸術品と言っても過言ではなく、これまで唯一無二の存在であり続けてきています。ここでは、歴史上の偉人からも愛されたブレゲの魅力を探っていきましょう。

ブレゲとマリー・アントワネットの出会い

ロシア皇帝のアレクサンドル1世(1777-1825)や、ナポリ王妃カロリーヌ・ミュラ(1782-1839)、そしてナポレオン・ボナパルト(1769-1821)など歴史上の人物にも、アブラアン-ルイ・ブレゲ愛好家は数多く存在します。

そして、かのフランス国王ルイ16世(1754-1793)の王妃マリー・アントワネット(1755-1793)との出会いは、アブラアン-ルイ・ブレゲにとっても非常に重要なものとなったようです。

ブレゲの時計を愛し続けたマリー・アントワネット

ブレゲの放つ、精緻なメカニズムは最上級のエレガントさを漂わせ、世界の王族は魅了されたそうです。マリー・アントワネットももちろんそのひとりでした。あらゆる面で最高の物を求めた彼女は、時計に関しても極上の美しさを極めた品だけを手にするというこだわりを持っていました。そんな彼女の心を魅了したのが、アブラアン-ルイ・ブレゲの時計です。複雑なムーブメントは、無機質で単調な動きを繰り返す。

しかし、その優れた精密さには芸術性すら備わっていると感じていたようです。いくつもの時計を所有し、さらに国内外の上流階級の客人にも彼の時計をすすめた。いつしか彼女はアブラアン-ルイ・ブレゲにとって最上・最大のパトロンとなったのです。そして1783年、マリー・アントワネットの使者を名乗る男はブレゲに対し、時計の歴史の1ページに残る、ひとつのオーダーをすることになります。

伝説の時計 ブレゲ NO.160(マリー・アントワネット)

それまでの時計の歴史を塗り替え、現代の時計の基礎を築いたといえるアブラアン-ルイ・ブレゲが製作した時計の中で、伝説と呼ばれるモデルがあります。それが「ブレゲ NO.160」、通称「マリー・アントワネット」と呼ばれる複雑時計です。マリー・アントワネットはブレゲに対し、「時間も費用も一切の制限を取り払い、複雑機構のすべてを盛り込んだ世界最高の時計を作って欲しい」とオーダーしたそうです。

この要請を受けて、アブラアン-ルイ・ブレゲは複雑時計の製作に取り掛かります。それまでも彼の時計を愛用していた王妃に最高の逸品を届けることは、時計師としてとても重要な仕事だったのです。しかし、製作途中の1789年、フランス革命が勃発し、暴動から逃れるため、アブラアン-ルイ・ブレゲもスイスへと移住し、時計の製作は一旦中断されてしまいます。

ほどなく王妃は、革命裁判により処刑されることになりますが、王妃の死を知ってなお、ブレゲは王妃のために時計を作り続けました。そしてそのアブラアン-ルイ・ブレゲ本人も、時計の完成を前にこの世を去ることとなってしまいます。製作を受け継いだ弟子たちの手により完成を見たのは、注文から44年、王妃の死から34年、アブラアン-ルイ・ブレゲの死から4年が過ぎた後のことです。これが伝説の時計「NO.160」(マリー・アントワネット)のストーリーです。

ブレゲ NO.160(マリー・アントワネット)を復刻

完成した「NO.160」に引き取り手は現れず、1867年までブレゲ家の私財として保管。その後、時計愛好家でブレゲコレクターのデヴィッド・ライオネル・サロモンズ卿のもとに渡りました。

1925年にサロモンズ卿が死去すると、遺族は時計を1960年代にエルサレムのL.A.メイヤー記念イスラム美術館に寄贈することに決め、文字通り美術品として飾られておりました。しかし1983年、何者かによって美術館から盗み出されてしまうのです。

復刻モデル

ブレゲは人類史上の遺産ともいえる最高傑作が行方不明である現状を憂い、復刻するためのプロジェクトを2004年に密かに立ち上げました。復刻にあたり、過去の文献やモデルを徹底的に調査し、そしてアーカイブに保管されている記録とオリジナル製図に基づいて製造していきます。しかし、復刻モデルの完成を間近に控えた2007年の終わり頃に、のちにブレゲにより本物と確かめられた盗難品がとあるコレクターの蒐集品から発見されるのです。

2008年4月、ついに復刻モデルが発表されることとなります。スイスで行われる世界最大の時計・宝飾品見本市、バーゼルワールドの場で記者会見を行い、No.1160と銘が打たれた現代の「マリー・アントワネット」が披露されました。

このニュースは、世界中の時計ファンの間に瞬く間に広がり、大きな衝撃を与えました。時計愛好家の富豪たちには譲り受けることを申し出た者もいるようですが、ブレゲは販売には応じていません。

それだけでなく、この復刻モデルが披露される機会も数えるほどしかなく、これも謎に満ちた名作にふさわしいことなのかもしれないですね。アブラアン-ルイ・ブレゲによる“発明”の数々が盛り込まれた逸品ですが、トゥールビヨンは搭載されていません。その理由は発注を受けた1783年にはこの機構はまだ世に出ていなかったから、トゥールビヨンの特許申請は1801年のこと。マリー・アントワネットの人生が違っていたら間違いなく、コレクションに加わっていたことでしょうね。

まとめ

いかがでしたでしょうか?ブランド力・時計としての素晴らしさはもちろん、ここまでのストーリーを持っている時計は他にはないのではないでしょうか?自身の時計はどのようなストーリーがあるのか、調べてみるのも面白いかもしれませんね。

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