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偉人もご愛用する高級時計ブレゲ

偉人もご愛用する高級時計ブレゲ

時計の歴史を200年早めたと称されるアブラアン-ルイ・ブレゲは、1780年にプラチナ製の分銅(重り)を搭載した自動巻き懐中時計「ペルペチュエル」、1790年には現代のインカブロックをはじめとする耐衝撃吸収機構の元祖といえる「パラシュート」機構を開発した。さらにリピーターウォッチ向けの数々のソヌリ機構を開発したほか、閏年の調整を自動で行う「パーペチュアルカレンダー(永久カレンダー)」、姿勢差による重力の影響を相殺する「トゥールビヨン」も開発している。
1810年には、ナポリ王妃カロリーヌ・ミュラのために史上初の腕時計とされる「ブレゲ・No.2639」を開発した。これら多くの革新的な発明により、アブラアン-ルイ・ブレゲは「時計の歴史を200年早めた」と称されました。

ブレゲの歴史

創業は1775年になります。近年、腕時計の複雑化がますます顕著になっています。これらの機能の原点は懐中時計にみられ、18世紀から19世紀に活躍した、カビノチェと呼ばれる時計職人たちがその大半を発明した。その原点に立つ男が、アブラ・ハム・ルイ・ブレゲ。彼の存在なくして機械式時計の歴史は語れない。

アブラ・ハム・ルイ・ブレゲは1747年1月10日、スイスのニューシャテルで生まれた。15歳でスイスを離れ、パリ・ヴェルサイユの時計職人の門を叩くことになります。当時のフランスでは、時計は一握りの上流階級のものと考えられていました。これは、17世紀以来、連綿と続くフランスの伝統でした。ブレゲも当然、この伝統に従うわけだが、彼が違っていた点は、自らの卓越した技術をこの流れに組み込んだことである。

1775年に独立し、自らの店をオープンした彼が、最初に着手した仕事は、自動巻き機構でした。この機構はスイスの時計職人ペルレによってすでに発明されていたが、実用に耐え得る代物ではなかった。ブレゲはこの機構に改良を加え、実用化に成功。これにより、ブレゲの名声は王侯貴族にまで鳴り響いたのです。

ブレゲが、その生涯で最も情熱を傾けたのは、1783年に、ルイ16世の王妃マリー・アントワネットから注文された懐中時計の製作であろう。「金額、製作期間の制約は一切なく、出来上がった作品は時計のあらゆる機構を持つ最も優れた、かつ最も美しい時計でなくてはならない」というとんでもない注文を受けたブレゲは、すべての仕事を中断して、この時計製作に没入するのであった。

ところが時代の流れは、この天才時計職人の運命を翻弄することになります。1789年、バスティーユ監獄襲撃に端を発するフランス革命が勃発。王政は廃止に追い込まれ、王党派とみなされた多くの人々も粛正を受けることになります。ブレゲもその中の一人と睨まれ、1793年、故郷スイスへの帰国を余儀なくされたのだった。

失意のどん底にあった2年間のスイス生活。パリの店は没収という憂き目にもあった。しかし、スイスののどかな空気は、時計職人としてのブレゲを新たな挑戦へと向かわせたのでした。この2年間に彼は、トゥールビヨン機構、永久カレンダー機構、レバー式シリンダー脱新機機構、引き打ち機構など、時計学の発展を飾る数多くの発明を誕生させました。

機構上の発明だけがブレゲの本質ではない。優れた時計には優れた意匠も必要なのだ。針の先端に小穴の開いたブレゲ針など、オリジナリティー溢れるスタイルも数多く創り上げたのだ。

2年間のスイス生活を経て、1795年ブレゲは再びパリの土を踏むことになった。スイスでの発明は商品として実を結び、パリの店は再び活気を取り戻したのである。1802年には、あのマリー・アントワネットの注文による超複雑時計が、19年もの歳月をかけてついに完成した。自動巻き、永久カレンダー、ミニッツ・リピーターなどの複雑機能をすべて搭載したこの懐中時計は、まさにブレゲでしか完成し得ない複雑時計の金字塔とも呼ぶべき作品であった。しかし、当時のマリー・アントワネットはこの時計の完成を見ることなく、断頭台の露と消えていった。

史上最高の時計職人という称号を欲しいままにしたブレゲは、1823年、ついに帰らぬ人となった。彼の死後は”ブレゲの弟子と”称される少数の職人たちが、彼の意思を継ぐことになるが、時計が一般化し、普及品となる時代にあって、ブレゲ流の時計作りはその流れに逆行するものであった。

1970年、パリの老舗宝石商”ショーメ”がブレゲの復興に乗り出すことになった。18世紀の複雑な時計技術を現代に蘇らせるという、ある意味無謀な、しかし時計史に残る大英断を下したショーメ。優秀な時計職人を招聘し、かつてブレゲが作り上げた精密を極める時計をひとつひとつ分解し、その仕組みを記録するという、気の遠くなるような作業が始まった。復興宣言から実際に時計が完成するまでに、実に10年もの歳月を要したのであった。

時計学の世界に2世紀分の進歩と発展をもたらしたといわれるアブラハム・ルイ・ブレゲ。激動の時代に生きた天才時計職人の技術と思想は、ル・ブラッシュにある工場から、毎年ほんのわずかな数だけ誕生するブレゲ・ウォッチのなかに、今もなお生き続けている。

ブレゲの魅力

ブレゲの最大の魅力は「トゥールビヨン」という技術を大切にしている。初代ブレゲは数々の時計の技術を発明、または画期的な改良をしています。自動巻き機構、永久カレンダーなど内部機構の発明は、科学にも明るかった初代ブレゲの優秀な頭脳があったから成し遂げられたものです。その発明技術の中で、ブレゲの代名詞のように語られる技術があります。それは、「トゥールビヨン」です。1801年の6月26日に彼がトゥールビヨンの特許を取得したことが史実として残っています。トゥールビヨンとはフランス語で「渦」という意味です。1分(もっと短い場合もあり)で1回転する「キャリッジ」と呼ばれる回転ゲージの中にテンプを収納することで、時計にかかる重力の影響を最小限に抑え、極限まで精度を高める機構です。つまり、科学にも明るかった初代ブレゲは「重力が時計の精度に影響する」ということを知っていたのです。

この「重力分散装置」とも言えるトゥールビヨンは常識を覆すような画期的な機構でした。しかし、この技術は懐中時計時代に考案されたものですので、より小型な腕時計にトゥールビヨンが採用されたのは1980年代になってからです。ちょうど機械式時計が下火になった時期からの復興期でしたので、機械式時計がもつ芸術性を世間にアピールするために、高い技術をもつ時計師や高級時計メーカーがこの技術の再現に挑戦しました。もちろん、ブレゲ社もその挑戦に真っ先に挑んでいます。

この時代はトゥールビヨンを作れることがステータスであり、フランク・ミュラー氏やダニエル・ロート氏などは「トゥールビヨンを作れる時計師」として名を馳せました。しかし、ここ何年かで新時代の加工技術が時計メーカーにも導入され、以前よりもトゥールビヨンを製造する難易度は下がっています。そのため、数多くの時計メーカーがトゥールビヨンの時計をラインナップするようになり、現在はトゥールビヨンの希少性は以前ほどありません。

しかしそんな状況でも、ブレゲ社は創設者が発明したアイコニックな技術であるトゥールビヨンを「ブレゲの看板機構」として作り続けています。それは、現在のブレゲの技術の粋を集めたライン「クラシックコンプリケーション」内で、最も多く採用されている機構がトゥールビヨンという事実からもうかがい知れます。

世界中の偉人に愛用されているブレゲ

長い歴史の中で多くの人々を魅了し、ブレゲの作り上げる美しく洗練された機械式時計は、数多くの著名人を顧客として来ました。ブレゲは、イギリス、ロシア、オランダ、スペイン、トスカナ、ヴァヴァリアといった国も王族・支配者たちを数多く顧客に抱えていました。特にフランス革命以前のフランスにおいては、マリー・アントワネットがブレゲの時計の愛好家であったことが知られています。

他にも、ナポレオン・ボナパルトやタレーラン、カロリーヌ・ミュラ、ロシア皇帝アレクサンドル1世、オスマン・トルコ皇帝、ビクトリア女王、サー・ウィンストン・チャーチルなど、名だたる顧客を抱えていたブレゲ。その顧客と顧客のために作り上げた芸術性に優れた時計のリストは、今なおブレゲで歴史的価値のある資料として大切に保管されています。

まとめ

ちなみに、当社でブレゲの買取を強化しています。売却先を選ぶのが難しい、少しでも高く売りたいとお考えであればぜひ大吉をご利用ください。

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