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マリーアントワネットってどんな人なの?
マリーアントワネットはフランス国王、ルイ16世の王妃です。なんと14歳という若さでオーストリアのハプスブルク家からフランスのブルボン王朝に嫁ぎ、その後37歳の若さでフランス革命の際に命を落としました。そんなマリーアントワネットが愛した時計の話の前にマリーアントワネット自身がどんな人物だったのか振り返ってみたいと思います。
マリーアントワネット生誕
マリーアントワネットは1755年11月2日にオーストリアの女帝であるマリア・テレジアと神聖ローマ帝国の皇帝であるフランツ1世の間に生まれた11番目の娘です。(兄妹を全員合わせると15番目の子供)ドイツ語名では、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンと言います。
代父母のポルトガル国王ジョゼ1世とその王妃マリアナ・ビクトリアが名付け親となり、洗礼式はウィーン大司教が行い、兄のヨーゼフ大公と姉のマリア・アンナが代父母の代理を務めました。
しかし、前日にリスボン地震が起こったことが伝わると、一部では生まれた女の子の不幸な未来を予告しているのではとささやかれたそうです。マリーアントワネットは幼少期にマリア・カロリーナ・フェルディナント・マクシミリアンといった年の近い兄弟と共に育てられ、イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身につけたハープやクラヴサンなどの演奏を得意としたそうです。また、オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼いころから家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧したりして過ごしました。
マリーアントワネットの結婚
当時オーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫、ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との政略結婚を画策していました。そこで白羽の矢が立ったのがマリーアントワネットでした。マリーアントワネットとルイ16世の結婚式は1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂にて行われました。その日からドイツ名、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなったのです。
このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、二人の婚姻は盛大に祝福されました。しかし、ルイ15世は婚姻によってオーストリアとの同盟を維持しようと考えましたが七年戦争においてオーストリアと同盟を結んだフランスはプロイセンに敗北していたため、フランス国民の感情として反オーストリアの機運が高まり、マリーアントワネットは反オーストリアによる偏見に常に悩まされる事となってしまうのです。
マリーアントワネットの結婚生活
マリーアントワネットは結婚後間もなく、ルイ15世の寵姫であったデュ・バリー夫人と対立してしまいます。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたことがキッカケでしたが、娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受けたマリーアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けたのです。
当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からマリーアントワネットに声をかけることは禁止されていた為、宮廷内はマリーアントワネット派とデュ・バリー夫人派に分かれ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられています。
ちなみにこの2人の対決は1772年1月1日に、新年のあいさつに訪れたデュ・バリー夫人に対して、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のヴェルサイユは大層な人出ですこと!」とマリーアントワネットが声をかけることで表向きは終結したのです。その後、様々な宮廷生活での問題を乗り越えて、結婚生活7年目の1778年にルイ16世との間に待望の子どもマリー・テレーズ・シャルロットが生まれました。
マリーアントワネットとルイ16世との夫婦仲はあまり良くなかったと語られることが多いですが、マリーアントワネット自身はルイ16世のことを慕っており、またルイ16世もマリーアントワネットに対して好意はあったと言われています。互いの気持ちを上手く疎通できていなかったことが原因で、フランス革命間際までは距離を取りがちであり、またマリーアントワネットとルイ16世の部屋を繋ぐ隠し通路があったものの、使われることはほとんどなかったそうです。
フランス王妃としてのマリーアントワネット
マリーアントワネットは1774年、ルイ16世の即位により、ついにフランス王妃となります。フランス王妃になったマリーアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させたのです。
しかし、誰が王妃に下着を渡すかで諍いをおこしたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステータス(特権意識)であった宮廷内の人々や貴族達にとっては、マリーアントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になり、逆に反感を買ってしまいます。
こうした日々の中で、マリー・アントワネットとスウェーデンの貴族アクセル・フォン・フェルセン伯爵との浮き名が、宮廷ではもっぱらの噂となるのですが、キッカケとして地味な人物である夫のルイ16世を見下しているところもあったからだとも言われています。ただ、これは、マリーアントワネットだけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたそうです。
そんな中、マリーアントワネットは大貴族たちを無視し、彼女の寵に加われなかった貴族たちは、彼女とその寵臣をこぞって非難したというのですから、泥沼の争いですね。そして、マリーアントワネットを嫌う貴族達が口にする悪口のせいで、ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではマリーアントワネットへの誹謗中傷が酷かったそうで、その多くは信憑性の無い流言飛語(ただの悪口や言いがかり)の類だったのですが、結果的にこれらの中傷を信じてしまったパリの民衆はマリーアントワネットに対して憎悪を抱くようになってしまうのです。
また、1785年にはマリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件が発生してしまい、このように彼女に関する騒動は絶えなかったのです。
マリーアントワネットの有名なあの言葉は実は
マリーアントワネットが放ったとされる誰もが一度は聞いたことがあるであろう、あの言葉、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない!」。このセリフを聞いてマリーアントワネットは嫌な女だと思ったことがおる方も多いと思いますが、実際には彼女が生まれる前に別の人物が言った言葉であり、マリーアントワネットが言った言葉ではありません。
由来とされるのは、ジャン=ジャック・ルソーが著した彼の自伝『告白(フランス語版)』の第6巻に、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが『家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公夫人が答えた』ことを思い出したと記載されているだけで、このルソーの自伝を読んだ誰かが、上記の発言をマリーアントワネットが飢えに苦しむフランス国民に向けた言葉だと広めたのだと言われています。
要は、マリーアントワネットを陥れたい人物の言い掛かりだったのですね。こうした事実は、約200年を過ぎた現在、フランス国内は勿論、日本をはじめとした東洋の国々でも徐々に知られてきており、彼女への評価・認識も改められつつあります。
マリーアントワネットが愛した時計
マリーアントワネットは懐中時計の愛好家でもありました。1783年、当時既にフランス屈指の時計メーカーであった「ブレゲ」社に使者を遣わせ("王妃の熱烈な賛美者"を自称する人物だったという説も)そして後世「時計の歴史を200年早めた」と評される天才時計技師アブラアム=ルイ・ブレゲに対して「納期と費用に制約をつけず、複雑機構をすべて盛り込んだ最高の懐中時計を作って欲しい」と依頼をし、これを引き受けたブレゲは制作を開始します。
そうして製作されたブレゲの時計は「時・15分・分を音で伝えるミニッツリピーター」と呼ばれる機構や閏年にも対応した自動巻きカレンダーなど当時としては画期的な最新機構がいくつも搭載され、ケースは純金製、また文字盤もホーロー製とクリスタル製の二種類が用意され、特に後者ではその内部構造をつぶさに観察することが可能であったと言われています。
しかしブレゲの存命中に時計の完成は叶わず、ブレゲ本人の死後も、彼の弟子たちがその仕事を引き継ぎ、遂に1827年、ブレゲNo.160「マリー・アントワネット」は完成したのです。依頼主であったマリーアントワネットの注文から44年後、そしてマリーアントワネットが処刑されてから34年後のことでした。その後、マリーアントワネットが完成を待ち望んだ懐中時計は様々な人々の手を渡り歩いた末、1983年にイスラエル・エルサレムの美術館から盗まれ行方不明となるのですが、2007年に再発見されて現在もイスラエルのL. A. Mayer museum(L.Aメイヤー・ミュージアム)にて厳重な警備の下で保管・展示されています
またブレゲ社が会社に残されていた資料をもとに、2004年からレプリカ時計"No.1160"が制作され、2008年に完成します。これを収めた化粧箱は、かつてマリーアントワネットが愛し、しかし老化によって切り倒されたヴェルサイユ宮殿のオークの木を材料にしたとされています。
ブレゲが創るマリーアントワネット
2004年、ニコラス G. ハイエックは、ブレゲにマリーアントワネットが依頼した懐中時計の完璧なレプリカを製作するよう命じました。この時計に組み込まれた数多くのコンプリケーションを再現するにあたって、頼りになるのは当時の古い資料のみで、ブレゲ社の技術者やウォッチメーカーにとっては文字通り挑戦でした。調査はブレゲ・ミュージアムが所蔵するオリジナルのデッサンを始め、パリ国立工芸学院ミュージアムといった高度な文化施設などの協力によって行われ、それらが時計の個々の機能やデザインに関して利用可能な唯一の情報になりました。
また、プラスラン公爵の時計といった精巧な時計との比較を通じても、当時の時計デザインや技術について新たな発見がありました。こうした研究のおかげで、現在では一部失われてしまったノウハウまでもが甦り、ブレゲ社は伝説の時計を原型に忠実に再現することが可能となったのです。
新しい「マリー・アントワネット」は、まさに芸術作品と呼べる時計です。ペルペチュエル(自動巻き時計)で、時・15分・分を音で告げるミニッツリピーターや、2時、6時、8時の位置で日付、曜日、月をそれぞれ表示するパーペチュアル・カレンダーを備えます。また、10時位置のイクエーション・オブ・タイムは、実際の太陽時と時計が表示する時間との差(均時差)を表示します。時計の中央には、ブレゲの発明したジャンピングアワーが配され、分針も、独立して作動可能なセンター秒針と連動し(これはクロノグラフの原型)、通常の秒表示は6時位置にスモールセコンドで行われます。10時30分の位置には、48時間のパワーリザーブ表示が、1時30分の位置にバイメタル温度計が対称に配されています。
ブレゲの技術の傑作!マリーアントワネット1160
現存するデッサンと資料のみをベースにして製造されたNo.160「マリー・アントワネット」の復刻版です。現在、この時計は世界で5番目に複雑な時計とされており機能:時・分・秒の時刻表示、パーペチュアル・カレンダー、イクエーション・オブ・タイム、時・15分・分を音で告げるミニッツリピーター、独立して作動可能なセンター秒針、バイメタル温度計、パワーリザーブ・インジケーター ムーブメント:ローズゴールドから作られ、地板、受け、微小な歯車、パーペチュアル・カレンダーやミニッツリピーターの部品、熱でブルーに焼かれ磨かれたスティールのネジは木材で研磨しています。お値段が気になる方はぜひブレゲ社に問い合わせてみてください。
※ちなみに、マリーアントワネットの為に製作された懐中時計、初代マリーアントワネットは現在推定価格30-35億円と言われています。
最後に
波乱と悲劇に満ちた人生を送ったマリーアントワネットですが、彼女が愛した時計が現在もこの世界に存在しているのは凄いことですね。何百年経っても色あせない魅力あふれる時計をつくるブレゲに関しては、また別の記事でご紹介させていただきます。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。