ライカLeica 高額買取りいたしました、ご売却有難う御座います。 | 茅ヶ崎高田店
2023年07月08日
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【ライカ Leica】誕生
ライカは顕微鏡や双眼鏡などを生産していたドイツはウェッツラー(ヴェッツラー、ヴェツラー)の光学機器メーカー、エルンスト・ライツ社のブランドとしてスタートした。
ライツのカメラ(Leitz Camera)だからライカ(Leica)と名付けられたというわけだ。
ウェッツラーは鉄鉱石採掘、精錬、加工業などで長い歴史を有する土地柄だったが、18世紀初頭から光学関連産業が集まり、19世紀半ばからは近代的な工業化が加速した。
1911年、ライツ社に一人の技術者が入社する。
カール・ツァイスにいたオスカー・バルナック(1879~1936年)だ。
彼はツァイスにいた頃から実用的な小型カメラ開発を考えていたが、その夢はライツで実現することになる。
1913年から14年にかけて35mm映画用ロールフィルムの2コマ分(24×36mm=今日35mmフルサイズというとおおよそこのサイズを指す。ライカ判とも呼ばれた)を使用する小型カメラを3台試作した。
後に「ウル・ライカ(Ur Leica)」と呼ばれることになるライカの起源ともいえるプロトタイプだが、この時点ではまだライカという呼び名はなかった。
なぜ2コマ分なのか、その理由については1コマ分では画質に納得がいかず2コマにしてみたらうまくいった、あるいは納得いく画質を得るために必要な面積を計算した結果だった、といった説があるが定かではない。
カメラが作られた目的も映画フィルムでの露光テストのため、という説をはじめ諸説ある。
100年以上前の話で、しかも当時はまさか世界的なカメラブランドになるとは想定もされていなかったから、証拠も乏しく事実を明確にすることは困難だ。
だがそんなところも結果的にブランドの神話性を演出するのに一役買っている。
カメラはその後も試行錯誤を経て1925年、ライカA型(I型)として結実し市場に発売された。
日本で言えば大正14年なので、時代が昭和へ変わる間際の出来事になる。
ひとつ間違いなく言えるのは、当時としては革新的な小型サイズのカメラで、気軽に持ち運べることが大きな特徴だったということ。
さらに、それまでは密着焼きで写真を作ることが当たり前だったが、小さなネガから鑑賞に耐えるサイズの写真を作るためには解像度の高いレンズや引き伸ばし機などのシステムが必要であり、ある意味システムカメラの走りとも言えるだろう。
ライカ以前のカメラは大型で設置や運搬に手間がかかっているため、使える画質をキープしながら手のひらに載せられるサイズまでコンパクトにしたことは革命的。
ライカはカメラ産業のみならず写真表現の可能性を拡大したという意味でも、20世紀の写真文化の発展に寄与したと言って過言ではない。
その後スローシャッターの切れるデッケル社製コンパーシャッターを搭載したコンパーライカ(B型、I型のコンパー付きなどとも呼ばれる)を経て1930年には初のレンズ交換式モデル、ライカC型(レンズ交換式のI型)が誕生した。
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